足助のその後 定住者が着実に増えている

 久しぶりに足助を訪れた。高嶺下(こうろげ)地区にお住まいのAさんに仕事の依頼をするのが目的だったが、ついでに「にこにこさくせん」他の住宅地を回ってきた。

5373 足助に行くのは何年ぶりだろう。3年ぶりかな? 前に行ったときは私がいたとき(5年前)の状況から大きくは変わっていないという印象だったが、5年も経つといろいろと変化が目につく。

 藤岡町から矢作川に架かる赤い加茂橋を渡り、月原(わちばら)から足助に入った。橋のたもとの土地は、かつて「にこにこさくせん」で紹介して買い手のつかなかったところだが、今回訪問したら立派なログ風の住宅が建っていた。

 さらに進むと道路右側の川沿いに新しい住宅が2軒並ぶのは、渡合(どあい)地区でここは5年前には既に住宅が建設されていたが、その次の右手奥の住宅地、石取り場の跡地を開発した「イーハトーブの里」には、「残り2宅地」の看板が掲げられていた。前に訪問したときにはプレハブ住宅も多かったが、新しい住宅は伝統的な意匠を採用した住宅が目立つ。たぶん開発初期には地元出身の若い世帯が多かったが、最近の入居者は山里の暮らしを求めてくる外来者が多いのではないか。いずれにせよ私がいたときには、地元で開発を推進していた方ともども将来的な見通しに不安を抱いていただけに本当によかった。

5375  御蔵(みくら)小学校を過ぎすぐの「御蔵の里」は私の任期中に土地を購入いただきすぐに住宅が建設されたが、もうすっかり緑に蔽われ土地になじんでいる。その先の小町(こちょう)地区は、道路付きの宅地にはすぐにログ風の山荘が建設され、薪や芝生がきれいな景観を作っていたが、奥の宅地がなかなか売れなかった。今回訪問したら立派な山荘ロッジ風の住宅が建っていた。急勾配の狭い道を見ては、汗を流して草刈りしたことを思い出し、よかったなあと思うと同時にほっとした。

5389  御蔵から大蔵を経て開通した足助バイパスの東、富岡から国道153号に出る。新盛の公民館・扶桑館では多くの車が止まっていた。名古屋ナンバーも多かったから何かのイベントでもやっていたのだろう。明川(あすかわ)の交差点から右に入り五反田地区に入っていく。ここは農作業に熱心だった熟年の定住希望者に購入いただいたということは聞いていたが、2軒並んで建っているのを見るのはうれしい。子どもの洗濯物が干されていたのは子ども世帯と一緒に住んでいるのかな。地域の人も喜んでいるだろう。

 この後、一路、道を下って萩野小学校から県道33号に至り、百年草の前を通って西に向かう。香嵐渓では多くの人が川に浸かり涼を取っていた。かつての役場は耐震改修を施し、足助支所として変わらぬ姿を見せている。足助保育園から橋を過ぎて白鷺温泉に向かう道は長らく工事中だったがもう開通していた。だが、そこから下山に向かう県道77号は昔のまま、狭く山間をくねくねと続く。野林の手前で道を間違えて沢ノ堂、冷田に向かってしまったのはご愛敬。 5393

 戻ってようやくたどり着いた野林地区高嶺下は、町営住宅前の広場が整備され、地区内の道路も舗装されていた。そういえば舗装するかどうかで議論があったっけ。6区画だがまだ5軒しか建ってない。途中で脱却したMさんが夢去りがたく、地元のKさんの口利きで購入した町営住宅横の山の中には立派なログハウスが建っていた。

 Aさんには大歓迎で迎えていただいた。ベランダで涼風を感じつつ食べた五平餅とケーキは美味しかった。打合せ後、国谷(くにや)地区も訪ねると、集会所の奥に1軒家が建っている。ああ、売れたのか。よかったなあ。手前の空き地にも住宅が建てられ、少しずつ定住者が増えている。

5379  足助と言っても広いし、半日で回りきれるわけもないが、私が関わった地区のいくつかを回っただけでも、定住が少しずつ進んでいるようだ。一方で亡くなる方もいるだろうから、人口増というわけにはいかないだろうが、山の暮らし、農のある暮らしが少しずつ支持され、山里で暮らそうと考える人が増えていくのはいいことではないか。こうした動きが足助地域全体にどういう効果をもたらしているのか。そろそろその検証を行ってもいい頃かもしれない。今も足助のまちづくりに多少とも関わっているKさんや支所のSさんに持ちかけてみようか。

 やはりたまに訪問すると懐かしい。今回同行したYさんに「第二の故郷があっていいですね。」と言われたが、ホントそうかもしれない。この調子で少しずつ足助が元気になっていくとうれしいな。

【参考】

足助のすまいづくり:すまいづくり あれこれ

足助のまちづくり2:まちづくり あれこれ

足助 罵詈雑言