ニュータウンの再生・活性化

 戦後高度成長期に開発されたニュータウンの再生・活性化が昨今の大きな課題の一つとして取り上げられることが多くなってきた。千里ニュータウンの「千里すまいを助けたい!」や多摩ニュータウンの「フュージョン長池」などのNPO活動が注目され、国土交通省は住宅市街地総合整備事業の採択要件にニュータウン再生を加え、兵庫県では明舞団地の再生に取り組んでいる。各地の自治体で同様の模索が始まっている。
 私が住む春日井市でも高蔵寺ニュータウンの再生・活性化に向けて検討を始めたようだが、まだ明確な方向が示されるまでに至っていない。住民の間でも、施設の老朽化や空き家・空き地の発生が目に付き始めた状況から、市やURの施策を期待する声が聞かれるようになってきた。しかし一方で、旧市街地と較べれば、公共公益施設の整備水準は高いし、住民の所得水準も高く、現段階で旧市街地を差し置いてニュータウンに注力する必要性が見出しにくく、また具体的に実施すべき施策も分かりづらい。
 そんな話を昨日開かれた安住の会の新年会でしていた。急速な高齢化・少子化や空き家の大量発生など、ニュータウン独自の課題があるのではないか、という意見も間違ってはいないが、既に高齢化・過疎化してしまった旧市街地と比較すれば、予防よりも治療の方が重要という意見を覆すのに十分な説得力を持っているわけではない。
 しかし色々と話している中で、ニュータウンが達成したものがある一方で、いまだ達成していないものがあることに気付いた。旧市街地にありニュータウンにないもの。それは人と人のつながり、それも頼り頼られることを当たり前とするような深い地平での心のつながり。同様に土地への愛着心、郷土愛、共生の一体感、歴史、そして慣習や因習といったもの。それらはサービスやモノがあふれるニュータウンにあってけっしてカネで取得できないもの。その価値を価格や数量では計ることはできないけれど、人を人たらしめ、社会と人間の生や心を底辺で支えているもの。ヒト存在の根。
 ニュータウンはまだ普通の街になりきれていない。ひょっとしたらニュータウンで生まれ育った子供たちが成人し生活を始めた地区では普通の街へのスタートを切っているのかもしれないが、多くの若者は新しい街や都心に飛び出し、ニュータウンには心の芯をもがれた入居者だけが取り残されている。もちろん、普通の街で生まれ育った記憶を持ち寄り、普通の街にする努力はニュータウンのあちこちで行われ積み重ねられているだろうが、始めからあった旧市街地とはその厚さが違う。
 ニュータウンを普通の街にするための支援。それこそがニュータウン再生・活性化の意味ではないか。そのために何をするか。どうするか。それを考える必要があるのだと思う。さらなるサービスやモノの集中投下は必要ではない。