都市居住の社会学

 都市居住を社会学はどう分析し、現在の日本の住宅政策をどう評価しているのか。タイトルと副題からそうした期待を持って購入した。序章の冒頭にも以下のように記されている。

○これまでの日本社会では…社会学者の政策への関わりは低調であった。社会学の学問的成果あるいは社会学者の発言が現実の政策や制度設計に生かされる機会が、経済学や政治学と比べればはるかに少なかったのは確かな事実であった。2015年以降は、そうした状況に問題提起していく機運が高まっている。…本書も、そうした問題意識に基づいて、住宅政策に対して社会学がどのような貢献ができるのかを考察したものである。(P3)

 だから期待した。「第1章 日本の住宅事情と住宅政策の歴史」はコンパクトによくまとめられているし、「第2章 都市居住を規定してきた要因」「第3章 関西における郊外住宅開発とニュータウン」もよく整理されている。そして第4章以降、筆者が研究室の学生等とともに調査した研究結果がまとめられている。関西ニュータウン調査、住宅地図から作成した西宮マンションデータベースなどは確かにかなり手間のかかる作業を進め、整理し、分析している。だが、調査対象が関西圏や西宮市に限っており、それがそのまま日本全体の住宅政策に当てはまるわけではない。
 そして最終章では「今後は…『社会調査に基づく政策課題分析』がますます重要性を増していくことになるだろう。」(P209)」と綴られる。文中にも、国勢調査や住宅土地統計調査等の統計調査の不十分さが語られているが、現実問題、これらの統計調査を抜本的に変更するのは相当に困難ではないだろうか。しかし、統計制度への批判や提言では、住宅政策への提言としては微々たる内容。でも他に、社会学らしい視点からの政策提案がされているわけではない。期待足らず。
 100数年前に、外国人居住を研究する建築学専攻の研究者と雑談をした際に、社会学との違いとして、「分析し、現状を明らかにするのが社会学実学である都市計画や建築の工学系では、現状を如何に改善するかという提案を目指す」と言われたことがあった。まさにそのことを思い出す本ではあった。

ニュータウンでは、M字型人口構成に象徴されるように、一般社会とは異なった急速な高齢化が進行していくことが推定される。…ただ…住民のニュータウンに対する強い愛着感(「ニュータウンが好き」と答えた居住者93.1%)は、今後発生してくるさまざまな高齢化問題に対して、ニュータウン住民が何か新しい解決策を生み出していくことを期待させる数字となるだろうと考えられる。(P94)
○市役所には「市内にマンションが何棟あるのか」という基本的な建物データすら存在していないのである。またこの実態は、市内の公営住宅に住みたいと思う市民に、兵庫県営住宅については神戸市の県庁に、UR都市機構の賃貸住宅のデータは大阪のUR事務所へと行かざるを得ない状況を作ってきたのである。このような市内の住宅に関する基本的な建物ベースのデータの不在が、過去に有効な建築規制や住宅政策を展開できなかった大きな原因とも考えられるのである。(P140)
○<下り坂>日本社会における住宅政策は、人間が<どのような住宅に住み><どのように生計を立て><家族はどこに居住しどのような関係を結び><近隣やコミュニティとどのように関わり><どのような「生活圏」でどのような「生活時間」を過ごしているのか(「生活行動」)>といった、人間の日常生活実態を詳細に把握し、分析することによって総合的に考えていかなければならない問題であるといえるだろう。(P208)

建築の明日へ

 建築生産に関する研究者・松村秀一の最新刊である。とは言っても、もう1年近く前に出版されている。先日知ってあわてて購入した。(一社)日本建設業連合会の機関誌「ACe建設業界」で連載していたエッセイを中心に、いくつかのテーマにまとめて加筆修正したもの。肩に力を入れずに書かれた文章は非常に読みやすい。「次世代の建設業、建築界をどう構築するか」と書かれた帯が巻かれているが、これまでの研究の集大成的に、今後の建築界を展望する。
 「Ⅰ 新たな活動領域を見出す」は、「場の産業」から「利用の構想力」「民主化する建築」とこれまでの著作で論じてきたものを簡潔にまとめている。また、「Ⅱ アイデンティティを見直す」では、今後の建築業界を展望しつつ、平静の30年間について「実はそれほど大きな変革期ではなかったのかもしれない」(P77)と書いているのは興味深い。大きな災害と構造計算書偽装問題などがあり、法制度は大きく変わったが、それすらこれまでの研究成果等の延長線上で対応がされた。しかしこれからは違う。平成期の実績を踏まえ、今後こそ大きな変化が建築界に訪れるという見解には私も同意する。また、設計施工一貫の元請工務店に対する評価も興味深い。
 「Ⅲ 明日の建築人像を描く」では、今後の建築設計者やゼネコンの役割は「編集者」ではないかと言う。なるほど。逆に言えば、編集者としてしっかり存在感を示せないと、建築専門家の役割がなくなっていくのかもしれない。「Ⅳ 国境を越えていく」「Ⅴ 一人の生活者として感じる」は、コロナ禍で自宅に籠って、映画や動画を鑑賞しつつ馳せた思いなどが気ままに綴られる。今後の建築界はどうなるだろうか。本書全体を通じ、第一線を退いたからこそ思う気楽さが感じられる。気楽に読める一冊である。

○既存ストックが十分あるまち・時代において、人々の生活環境を豊かで楽しいものにするための投資は、「そこで何をやってやろうか」という空間利用者側の構想力、すなわち「利用の構想力」によって促進される。そこが、新築のまち・時代と違うところだ。…そして、…面的な広がりを持たせるためには、個々の利用の構想力を顕在化させ、組織化することが欠かせない。…それを学ぶことは、「希望を耕す」ことに繋がるだろうと私は確信している。(P32)
○平成の30年間、いろいろありはしたものの、実はそれほど大きな変革期ではなかったのかもしれない。…私見にすぎないが、この30年の大きな変化は二つ。建物の数の一方的な増加によるストック重視への大きな転換と、情報関連技術による不可逆的な変化、この二つである。…平成の中でも最後の10年間に、リノベーションやそれによるまちづくり、そして関連するビジネスは、全国のあちらこちらではじけた展開を見せた。この動きこそ、新しい時代の面白さに繋がっていくのだと思う。(P77)
○現代の工務店の後継者に大学等で建築学を修めた方々が多くいることを考える時、…元請工務店の一般的な仕事の担い方にはとても希望が持てると私は考えている。…建築に関わるコストの多重的な性格を操作する可能性を高める上でも、施工性等を踏まえた建材選択や各種性能実現を円滑に進める上でも、設計施工一貫の元請工務店という業態の存在には特長があり、建築を通じて自己実現したり、社会貢献したりする場として、若い方々の選択肢になり得ることに十分な価値と希望があると考えるのである。(P106)
○技術のプロフェッショナルである建築設計者やゼネコンの役割はもっと先鋭化しなければならないだろう。…私は編集者としての役割に期待をかけている。/個々の要素技術の核心が外部化し、さらにはオープンリソースとして情報化されると、それらを集めて建築全体にまとめ上げるまでのハードルは今より遥かに低くなるだろう。…ただ、数多ある要素技術のどれを選び、どれと組み合わせるのが、当該プロジェクトにとって一番面白く、効果があるかという点に関しては、能力と経験次第という面が十分に残り得る。編集の妙というものである。(P124)

土地は誰のものか☆

 「現代総有」という考え方がある。「土地を地域(共同体)が所有し、若しくは個人所有は認めても、利用は地域(共同体)が決定し、主体となって利用する」という考え方である。第5章が「現代所有」というタイトルになっているが、この章で「現代総有」について詳しく説明するわけではない。いやたぶん、「現代総有」の方法は様々あるのだろう。問題は考え方である。土地に私的な所有権・利用権を認めてきた日本の土地法制を、人口減少が進み、不明土地や空き家・空き地の発生が続く今、改めて考察し、新たな仕組みを考えてみようと提言する本である。
 そのために本書ではまず、バブルへの対応として制定された旧土地基本法と、30年ぶりに改正された新土地基本法について考える。不明土地や空き地の発生が続く中で、新土地基本法では「管理」を付け加えた。だが、「管理」するだけでは根本の問題、人口減少や空き地等の発生は止まらない。東京一極集中の是正と地方の再生に対する政策や発想がない法律では不十分だと指摘する。
 そこで、第2章では古代から戦後まで、日本における土地所有権の歴史を振り返る。また第3章では欧米諸国の土地所有権と相続制度について、都市計画の視点から考察する。そこで浮かび上がるのは、欧米諸国と比べあまりに歪な土地・相続法制の姿である。これでは空き地や不明土地の発生は止まらない。各地で生まれつつあるランドバンクも十分には機能しない。
 そこで第4章では、最近の都市政策である「都市再生事業とコンパクトシティ」と「東日本大震災復興の教訓」を取り上げ、さらに2021年に公表された「国土の長期展望」を検討する。しかしそこで垣間見えるのは、市民と乖離した企業や国家主導の政策である。そこで続いて、第4章のタイトルでもある「田園都市」について考察する。イギリス・レッチワースで実現したハワードの「田園都市論」、田中角栄の「日本列島改造論」に対抗して大平正芳が打ち出した日本の「田園都市論」。それらと比較すると、岸田首相が言い出した「デジタル田園都市論」には人々に「幸福感」をもたらす「縁」や「コミュニティ」がない。デジタルだけが突出している。
 そこで「現代総有」である。その際に参考になるのが、欧米諸国の相続制度だ。「現代総有」には、逼塞しつつある資本主義に対して斎藤幸平らが主張する「脱成長コミュニズム」に通じる思想がある。今こそ大胆に、土地問題に切り込む必要がある。「土地」と「国民」がいてこその国家だということをもっと真剣に考えた方がいい。さもないと、司馬遼太郎が言うように、日本は第二の「敗戦」を迎えることになるかもしれない。

○旧土地基本法下では、開発の抑制がうたわれ、東京一極集中の是正が附帯決議された。にもかかわらず、政府、企業そしてマスコミや学者も…もっともらしい理屈を並べたうえで…様々な規制緩和を採用し、東京一極集中政策を加速させてきた。…新土地基本法では、登記の完全実施など管理に必要な最低限の措置をとることは当然であるが、本来なら管理だけでなく…東京一極集中の是正と同時並行的に地方の再生策が図られなければならないのに、管理にはその発想がない。(P26)
英米法では…相続財産は…いったん財団化され、遺言書の認定や遺産分割協議が成立したあと、それらによって特定された相続人に所有権が移転する…。/大陸法では…相続人全員に所有権は帰属するが、…「合有」…での合意のもとに相続人に配分される…。/双方とも、相続財産は、死亡と同時に自動的に個人所有になるのではなく、いったん財団あるいは合有といった組織に移り、その内部での論議と決定を経由して、最後にその決定に基づいて所有権者が確定するというシステムになっている(P147)
アメリカでは空き地などの発生は土地の公的な部分と密接に関係する「都市」の問題である。したがって、当然にそれは行政の「公的な仕事」の対象であり、その解消は自治体の権限でありまた責務となる。しかし、日本ではこれらの問題は民間人の私的な所有権の問題であり…行政は介入できない。…アメリカのランドバンクは自治体とほぼ一体の組織となっているのに対し、日本のそれは予算も権限も持たない、自治体の外側のいわばNPO的な活動にとどまるのである。(P154)
○21世紀岸田「デジタル田園都市論」はいかにも現代的なデジタルを採用しているが、人々にとって最も必要な「縁」あるいは「コミュニティ」にほとんど言及することがない。おそらくこれが都市再生やコンパクトシティを含む政府都市論の致命傷なのである。(P210)
○利用しない空間…を不明土地、空き地・空き家といった負の概念としてでなく、「自然」の候補地としてプラスに考えると…「真の豊かさ」を享受できる可能性を持つことができるようになったということでもある。山、森、川そして海がよみがえり、デジタル化の進展は、次々と人間と自然の共存の知恵を生み出してくれるだろう。ハワード、大平の理想を受け継ぐ「田園都市」の構想とはそういうものであり、またそうでなければならないのである。(P216)
○現代総有とは、個人の所有権は尊重するが(本来はレッチワースのように現代総有主体が単独で所有することが望ましい)、その利用は結束した共同体が主体となり共同で行うというものである(法的には個人の所有者と主体の間で借地契約を締結する…)。これはまさしく…司馬遼太郎の「土地公有、しかし「公」は国家ではなく、我々の仲間という意味での「公」」と言うべきものであろう。(P216)