日本列島回復論☆

 非常に興味深く、実現性のある提案だと感じた。「日本列島回復論」というタイトルは、田中角栄の「日本列島改造論」を念頭につけられたものだ。
 田中角栄内閣以降に形づくられていった土建国家モデルは、地方への雇用機会の提供と都市部の中間所得層に対する減税という“稼ぎをセーフティネットにした社会保障のシステム”と断じる。また、「競争が資本主義の本質というのは間違ってい」る。「できるだけ競争をしないで済むように…工夫と努力をし続け、資本を蓄積する。それが資本主義社会における競争の本質です。…そのためには格差と分断があるほうが望ましい。…資本主義が駆動すればするほど、格差と分断は拡大してい」く。「資本主義は、格差と分断を原動力に、それを拡大再生産しながら成長し続けるシステム」(P63)とも言う。第1章・第2章で展開される現在の日本社会への批判は非常に切れ味がいい。
 そうした社会の矛盾や行き詰まりを切り開き、全体的な安心の基盤、究極のセーフティネットが残っているのが「山水郷」だとして、第3章以降、山水郷の可能性と現状を説明していく。その部分もまた切れ味鋭く、わかりやすい。山水郷について本書では、かつてそこは“生きる場”であったと言う。それが明治以降、人と資源を供出する“動員の場”になってしまった。また本来はヨコ社会であったムラ社会に、タテ社会の論理を接ぎ木した結果、陰湿なムラ社会という側面が現れることとなり、その結果、“生きる場”としての機能も魅力も低下していった。
 しかし、昨今、若者達が山水郷を目指す動きが各地で見られるようになってきた。第5章では、私も一時期働いていた豊田市足助町の状況が紹介される。定住希望者が殺到する足助町。だが、それを支えているのは、わずか40分で世界に誇る大企業、トヨタ自動車に通勤できるという立地である。いや、本書ではその部分を大きく評価しているわけではない。しかし、筆者は足助町の「おいでん・さんそんセンター」を取材しており、鈴木所長から企業と連携した取組事例を聴いたはずだし、それが第6章以降の提案に至るイメージの源泉の一つだろうと思う。ちなみに私が「おいでん・さんそんセンター」を見学に行った際の記録は以下のとおり。
 「おいでん・さんそんセンターと足助の町並み」
 第5章まで読み進めた段階では、単に最近の若者や退職者等による田舎帰りを説明して終わるのかと思った。しかしそこからが力強かった。第6章のタイトル「そして、はじまりの場所へ」の“はじまりの場所”とは単に山水郷が日本列島本来の“はじまりの場所”というのではなかった。政府が決定した「日本再興戦略 改訂2015」(最新は2019年に閣議決定した「成長戦略実行計画」)で目指す未来社会のビジョン「Society 5.0」の“始まりの場所”として山水郷を位置づけよ、という提案だったのだ。
 かつ、その内容は具体的で説得力もある。すなわち、今や山水郷にこそ資源も人もいるのだから、企業の地方移転を促し、地域資源を最新テクノロジーの力で再生し活用してこそ、日本列島は回復し、また列島に住む人間も安心し充足して生きることができるようになると主張する。このまま痩せ細るばかりの都会でこれ以上生き続けていくことにはもうほとんど限界が来ている。人もいなくなった山水郷からは動員もできない。無限の可能性を秘めた山水郷に人が自ら立ち入り、関わってこそ、その資源を元手に再スタートできるかもしれない。日本の未来は山水郷にある。その言葉はかなりの確率で正しいのではないかと感じる。

日本列島回復論 : この国で生き続けるために (新潮選書)

日本列島回復論 : この国で生き続けるために (新潮選書)

  • 作者:井上 岳一
  • 発売日: 2019/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

○山水郷には、大きく分けて二つの役割があった…一つは、“生きる場”としての役割です。…もう一つ…は資源供給源としての役割です。…しかし…明治政府は、富国強兵を実現するため…山水郷に動員をかけて、人と山水資源を集めました。…“動員の場”となったのです。…私達はすっかり山水郷を“動員の場”として見る癖がついてしまいましたが、…山水郷を“生きる場”として捉え直すことが必要な時期が来ています。(P145)
○近代になり、中世以来のムラの伝統に、武家社会由来のイエの伝統が接ぎ木されたことで、封建的な色彩の強い独特なムラ社会の形成が促されたのです。…決定打となったのは、明治31年の明治民法によるイエ制度の確立です。…自治・自立・自衛の共同体だったムラは、全体主義的で中央集権的な国家のシステムに組み込まれることで、根本的に変質し、個を抑圧して全体を優先する、共同体の負の側面が強く出るようになったのです。(P159)
○資本主義から適度に距離を置く生き方であれ、資本主義のシステムの中で生きるローカルベンチャー的な生き方であれ、山水郷に身を投じる若者達は、いずれも山水の恵みを生かすと共に、人のつながりを大切にしている点で共通した生き方をしています。都市で頼りになるのは財物、とりわけお金ですが、山水郷には、山水と人のつながりという財産があります。…若者達は、この二つの財産を元手に…自立した生き方を実現しようとしているのです。(P216)
○企業がローカルを目指せば郷土を引き受ける主体が増えます。個人と企業が一緒になって…山水郷を引き受けていけば、多くの山水郷を持続可能にすることが可能になるでしょう。それは傷つき、衰退した地域社会を回復させるだけでなく、安心と充足を感じて生きる個人を増やし、この国の幸福度を高めることに寄与するはずです。…この列島を引き受けて生きる主体が増えれば…そこに生きるすべての存在も回復に向かうはずなのです。(P272)
○山水郷は、新しい社会であるSociety 5.0のモデルをつくるのに最適な“はじまりの場所”となれる可能性があるのです。…質の高い古来の自活と互助の伝統に未来のテクノロジーが接ぎ木されることで、生活に必要なもののほとんどは地元で調達でき、色々なことが自動化されて余計なコストと手間が省ける生活が実現するのです。…山水の恵と人の恵をテクノロジーの力で補完することで、安心と充足を感じて生きていける場に山水郷がなっていくイメージです。(P284)

菱野団地の連棟式住宅、ナニコレ珍百景に登録!

 昨年11月に「黒川紀章が設計したニュータウン・菱野団地」で報告したように、菱野団地を見学した。この時に、原山台の連棟式住宅が左右で全く違った外観に増改築されている状況があまりにすごかったので、「『ナニコレ珍百景』に投稿したいほどの景観」と書いたが、その後、ちゃんと投稿をしてしまった。そうしたら、1月半ばにテレビ朝日から取材をしたいという電話があり、しかしその後、何の連絡もないので、ボツになったかと思っていたら、先週金曜日に改めて電話があり、「9日(日)の『ナニコレ珍百景』で放送します」とのこと。
 放送内容は、最初に瀬戸市の主婦二人組に瀬戸市の特徴やB級グルメを聞くなど、街並みとは全く関係のない内容から入ったが、その後、先の記事でも紹介した、軒が左右で色分けされた住棟がアップで映り、出演者から「おおっ!」とどよめきが上がる。それから、別の住宅の居住者の女性に話を伺ったり、室内の様子を紹介したり、また図面を提示するなどして、素人の視聴者にも理解できるように説明をしていた。
 その点はいいとして、不満が3点。一つは、テレビで紹介した住棟よりももっとすごい物件があったのに、それは紹介されなかったこと。放送を拒否されたか、隣家で工事用の仮囲いが見えたので、工事中だったかもしれない。もしくは、あまりに左右が違い過ぎて、テレビクルーが同じ連棟式住宅だとは思わなかったのかもしれない。それにしても残念。ということで、下に再掲しておきます。

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連棟式住戸の増改築
 2点目は、テレビでは「公営住宅分譲」とテロップが出されたが、愛知県住宅供給公社の分譲事業のはずで、「公営」ではなく「公社」、もしくはせめて「公的」にしてほしかった。
 そして3点目だが、居住者の女性が増改築前当時のことを「どれも同じ外観で、子供が家を間違えることもあった」と言ったことに対して、最後の場面で原田泰造がこのことを捉えてコメントし、次の話題に切り替わったが、これではまるで現在も家を間違える子供がいるようではないか。これはあくまで増改築前の話であり、この話題の最後のコメントとしてはふさわしくない。現状の外観等に関するコメントがほしかった。
 ちなみに、瀬戸市ということは紹介されたが、菱野団地ということは紹介されなかった。個人的には「黒川紀章」の名前も聞きたかったが、さすがに黒川紀章はもう過去の人か。菱野団地ネタでは、萩山商店街の現状も興味深い。次はこれを投稿しようかな。マニアック過ぎて採用されないかもしれないけど。

近代建築そもそも講義☆

 久しぶりに藤森照信の本を読んだ。週刊新潮での連載から抜粋して本にしたもの。全編、藤森照信が書いていると思われるが、なぜ大和ハウス工業総合施術研究所との共著になっているのかわからない。また、文中、かなり詳細に建築物の意匠を説明する部分があるが、写真等が少ないため、専門家でないと何を説明しているのかわからないのではないか。私も時々パソコンで該当建物の画像を検索しては、書かれている内容を確認した。
 という問題はあるが、内容は相変わらず面白い。これまで藤森氏の本は多く読んできたので、既視感のある内容も多いが、本書で初めて知ったこともいくつかある。
明治14年東京防火令がわずか6年で完了することができた背景には松田道之府知事による防火積立金制度があった。
・擬洋風建築は、日本の大工による創造ではなく、建築家まがいの米人技術者ブリッジェンスに端を発する。
・コンドルが来日直後に建築した鹿鳴館イスラム装飾などが付いたインド・スタイルの建物であり、その後コンドル自身が日本建築を調べていく中で、本格的洋風建築を建設するようになっていった。
 などの話は興味深い。また「おわりに」では、「江戸東京たてもの園」に移築した建築物について書いているが、中でも前川國男の自邸に関するエピソードは興味を惹く。
 その他にも興味深い話はいくつもある。明治初期には、建築家とは言えない技術者によって日本の洋風建築がスタートしたことがよくわかる。そうした状況の中、ジョサイア・コンドルによる建築教育が果たした役割が実に大きかったこともまたよく理解できる。日本建築史の紆余曲折が藤森照信の博識と筆により、実に面白く紹介されている。

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

○当時の中央3区(日本橋、京橋、神田)の主要街路7本と運河16本の両側は蔵造とし、日本橋、京橋、神田、麹町の各区の全建築は屋根を瓦葺に制限する。…明治14年2月、防火令は発令され、20年8月まで6年かけ、完全に実行された。…当然、“そんな資金はないから出来ない”という家主は出てくる。…そこで…月々積金(貯金)をし、満期になったところで下ろして改造費に充てる、という策を編み出した。…中心3区に家を持つほどの者なら5年もかければ貯まる。…かくして、明治を代表する地方行政官の知恵により、首都の大火は鎮められたのだった。(P28)
○古来、住宅建築の発展をうながしたのは接客だった。/そうした外の存在を内に迎えるための作りの、日本列島での起源をたどると…おそらく縄文時代まで行くだろう。…アイヌの昔の住居を見ると、ゴザ敷の土間の一部が広い棚状に持ち上げられ、その上が窓から入ってくる“神”の座とされた。/神さまを迎え、もてなしたのが接客空間の起源で、以来、神さまが仏教と僧に、僧が武士や大名に、大名が外国人に、と入れ替わりながら続いてきた。(P62)
○ヨコハマの米人建築家ブリッジェンスがナマコ壁や日本屋根など伝統を取り込んだ和洋折衷を強調する建築を世に問うと、その影響は直ちに日本の大工棟梁におよび、ここに、“擬洋風”と呼ばれる洋風に擬えたアヤシイ建築が出現し、明治初期の文明開化のシンボルにまで駆け上がる。/生みの親を清水喜助といい、現在の清水建設の基を築いたことでも日本近代建築史上に名を留める。(P166)
○当時、大英帝国の建築界では、インドに建てるべきイギリス建築についての議論があり、コンドル先生のロンドン大学教授ロジャー・スミスは、当時の主流のヴィクトリアン・ゴシックとインドのイスラム様式の折衷こそふさわしいと考え、インドで実行していた。/トックリ柱も南洋の椰子もイスラム装飾も、インドのスタイルに違いなく、日本もその延長上にある、とコンドル青年は考えていたに違いない。…コンドルが日本の伝統建築について何年もかけて調べ…そしてそれ以降、コンドルもインドやイスラム色を建築に加えることはやめる。(P217)
昭和3年にパリに渡ってル・コルビュジェに学んだ前川は、モダニズム建築は鉄筋コンクリートで作るものと考えており、木造しか許されない自邸にさしたる意味を認めていなかった。…昭和17年完成という時期は、すでに戦時体制に突入しており…余分なことは一切できなかったことがモダニズムの建築思想に合致し、きわめて機能的で合理的な住宅が誕生する。…現在…は”木造モダニズム”と呼ばれて高く評価され…ているが、その戦時中の代表が<前川邸>にほかならない。(P253)