近代建築そもそも講義☆

 久しぶりに藤森照信の本を読んだ。週刊新潮での連載から抜粋して本にしたもの。全編、藤森照信が書いていると思われるが、なぜ大和ハウス工業総合施術研究所との共著になっているのかわからない。また、文中、かなり詳細に建築物の意匠を説明する部分があるが、写真等が少ないため、専門家でないと何を説明しているのかわからないのではないか。私も時々パソコンで該当建物の画像を検索しては、書かれている内容を確認した。
 という問題はあるが、内容は相変わらず面白い。これまで藤森氏の本は多く読んできたので、既視感のある内容も多いが、本書で初めて知ったこともいくつかある。
明治14年東京防火令がわずか6年で完了することができた背景には松田道之府知事による防火積立金制度があった。
・擬洋風建築は、日本の大工による創造ではなく、建築家まがいの米人技術者ブリッジェンスに端を発する。
・コンドルが来日直後に建築した鹿鳴館イスラム装飾などが付いたインド・スタイルの建物であり、その後コンドル自身が日本建築を調べていく中で、本格的洋風建築を建設するようになっていった。
 などの話は興味深い。また「おわりに」では、「江戸東京たてもの園」に移築した建築物について書いているが、中でも前川國男の自邸に関するエピソードは興味を惹く。
 その他にも興味深い話はいくつもある。明治初期には、建築家とは言えない技術者によって日本の洋風建築がスタートしたことがよくわかる。そうした状況の中、ジョサイア・コンドルによる建築教育が果たした役割が実に大きかったこともまたよく理解できる。日本建築史の紆余曲折が藤森照信の博識と筆により、実に面白く紹介されている。

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

○当時の中央3区(日本橋、京橋、神田)の主要街路7本と運河16本の両側は蔵造とし、日本橋、京橋、神田、麹町の各区の全建築は屋根を瓦葺に制限する。…明治14年2月、防火令は発令され、20年8月まで6年かけ、完全に実行された。…当然、“そんな資金はないから出来ない”という家主は出てくる。…そこで…月々積金(貯金)をし、満期になったところで下ろして改造費に充てる、という策を編み出した。…中心3区に家を持つほどの者なら5年もかければ貯まる。…かくして、明治を代表する地方行政官の知恵により、首都の大火は鎮められたのだった。(P28)
○古来、住宅建築の発展をうながしたのは接客だった。/そうした外の存在を内に迎えるための作りの、日本列島での起源をたどると…おそらく縄文時代まで行くだろう。…アイヌの昔の住居を見ると、ゴザ敷の土間の一部が広い棚状に持ち上げられ、その上が窓から入ってくる“神”の座とされた。/神さまを迎え、もてなしたのが接客空間の起源で、以来、神さまが仏教と僧に、僧が武士や大名に、大名が外国人に、と入れ替わりながら続いてきた。(P62)
○ヨコハマの米人建築家ブリッジェンスがナマコ壁や日本屋根など伝統を取り込んだ和洋折衷を強調する建築を世に問うと、その影響は直ちに日本の大工棟梁におよび、ここに、“擬洋風”と呼ばれる洋風に擬えたアヤシイ建築が出現し、明治初期の文明開化のシンボルにまで駆け上がる。/生みの親を清水喜助といい、現在の清水建設の基を築いたことでも日本近代建築史上に名を留める。(P166)
○当時、大英帝国の建築界では、インドに建てるべきイギリス建築についての議論があり、コンドル先生のロンドン大学教授ロジャー・スミスは、当時の主流のヴィクトリアン・ゴシックとインドのイスラム様式の折衷こそふさわしいと考え、インドで実行していた。/トックリ柱も南洋の椰子もイスラム装飾も、インドのスタイルに違いなく、日本もその延長上にある、とコンドル青年は考えていたに違いない。…コンドルが日本の伝統建築について何年もかけて調べ…そしてそれ以降、コンドルもインドやイスラム色を建築に加えることはやめる。(P217)
昭和3年にパリに渡ってル・コルビュジェに学んだ前川は、モダニズム建築は鉄筋コンクリートで作るものと考えており、木造しか許されない自邸にさしたる意味を認めていなかった。…昭和17年完成という時期は、すでに戦時体制に突入しており…余分なことは一切できなかったことがモダニズムの建築思想に合致し、きわめて機能的で合理的な住宅が誕生する。…現在…は”木造モダニズム”と呼ばれて高く評価され…ているが、その戦時中の代表が<前川邸>にほかならない。(P253)