マイパブリックとグランドレベル

 裏トビラに印刷された著者の顔写真がモデルのようにきれいなのに驚いた。ネットで検索して見る画像も、スタイルがよく自信にあふれている。人に見られることに慣れており、また人からカッコよく見られたいと欲しているタイプの女性なのかな。だから、趣味のパーソナル屋台なんてことができるのだ。そして「やりたい」と思えば、すぐに叶えることができるだけの経済力を持っている。イケアで安く調達したとアピールしているが、そもそも1万円近い買い物が逡巡なくできるというところから庶民レベルとはかけ離れている。
 マイパブリックとグランドレベル。書かれていることはよくわかる。パブリックを公共任せにせず、自分でパブリックを作ってしまおう、という発想もよく理解できる。別にそれが趣味で、自己満足できる人は自由にやればいい。家先を掃除する人だって、マイパブリックを実践している。「『押沢台ブラブまつり』と『押しナビ』」で紹介した「押沢台ブラブラまつり」や「ブラっとカフェ」もマイパブリックだ。マイパブリックには様々なスタイルがある。一人でもできるし、みんなと一緒にやってもいい。
 本書で紹介されている事例の中では、「根岸さん家の灰皿」が最も興味深かった。単に「家先に灰皿を置いた」というだけのこと。もっともこれさえも、他人が家先にタバコを吸ってたむろしたり、日に何度も灰皿の掃除をすることが苦にならないということが普通の人にはできない。もちろんできなくてもそれでかまわないのだが。
 グランドレベルも景観行政などの場ではよく言われてきたことだ。「『押沢台ブラブまつり』と『押しナビ』」で紹介した中部大の豊田先生による「多治見のまちの家先デザイン手法 HOUSE FRONT」では住宅地におけるさらに詳細なアイデアも紹介されている。
 本書では、グランドレベルに関して、世界の活動事例を紹介したり、「からまりしろ」「かかわりしろ」「つながりしろ」といった建築家・平田晃久が提唱した言葉から派生したと思われるキーワードを紹介したりしているが、正直、これらの情報についてはちょっとウザいという気がしてしまう。都市計画や行政のヴィジョン批判などもサラッと読み飛ばしてしまった。要するに「グランドレベル」で言いたいことは「計画や設計などにおいて、理念的になり過ぎず、目の前のことを忘れないようにしよう」ということ。まちづくりにおいても、もちろんそれは大事なことだ。
 本書で著者が言っていることは何も間違っていないし、彼女の行動もすばらしいとは思う。でもできない人は多いし、できない時もある。というか、できないことの方が多い。ではどうするか。たぶん本書が書かれた背景には「日本人ってこんなことも知らない」という著者の思いがあるのだろう。実際、それも事実だ。だとすれば、本書のように行動や事例を紹介することも一例。一方で、できないまでも「それは大事だよね」と思うマインドを植え付けるための教育や啓発も必要なのだと思う。著者はカッコいい。でも普通の人だって十分カッコよくなれる。そんなことが伝わる啓発ツールがあるといい。結局、何が言いたいって、要するに、田中元子さんはカッコよすぎる、ということ。私の単なる嫉妬かもしれないけどね。

○「マイパブリック」とは造語で、“自分で作る公共”のことである。…そもそも行政と市民の関係が成熟していない日本だからこそ、あればいいなと思う公共は、自分で勝手に作ればいいのだ。…好況が「みんなのもの」ひとつしかないことが、そもそも問題だったのではないだろうか。…個人がつくる私設公共=マイパブリックは、「みんなのもの」という責を負わない。作り手本人がよかれと思うものを、やれる範囲でやる。それをフィーリングの合うひとが使う。…それしかないし、それでいいのではないだろうか。(P20)
○世界中でモノが生産され続け、人々にものを欲しがってもらうための、あらゆる情報が押し寄せてくる。でももう、限界だと思う。わたしたちは…受動機会に飽きているからだ。…要は、そこに関わる人々が能動的であるかどうか。モノよりもコトよりも、まずヒトの問題なのだ。…ひとは趣味の中で、能動性を発揮させている。わたしはその能動性を、もっと社会で、つまりまちの中で直接的に存在させたら、どんなに素敵だろう、と思っているのだ。(P67)
○「まち」をよくしたい、「社会」をよくしたい、とは誰しもが思うことだ。…そのために…すぐにできることは何だろう…。/そして、気づいたのだ。…目の前のグランドレベルを良くしていけばいいのだ。…ひとは立体的にまちを使いこなせるものだと、思い込みすぎていたと思う。誰も鳥になんかならないのに。わたしたちはみな、目の高さから水平の世界しか、視認できないのだ。…グランドレベルさえよくなれば、人々の目の前に広がる風景、つまり…まちや社会…も変わっていくのではないか。(P118)
○たとえある建物があなたのものだったとしても、あなただけのプライベートな建物という役割のみでは終われないだろう。誰にでも見られているということは、誰にでも与えているということ。あなたの1階は、同時に「まち」でもある。…1階は、プライベートとパブリックの交差点という、特殊領域なのだ。(P123)
○日本におけるまちや都市にまつわるヴィジョンにはいつも、虫の目ならぬ人間の目、ヒューマンスケールの目、つまりグランドレベルのつくられ方に対する具体的なヴィジョンに欠けている。…東京も地方も、都市再生、まち再生のキーワードはグランドレベルにある。だからこそ、向かうべき方向にそったグランドレベルのヴィジョンを、どのマスタープランもきちんと組み込むべきである。(P159)
○もし、本当に…パブリックな「場」をつくる気があるのなら、それはすべて誰からも見ることができるグランドレベルでやるべきなのだ。…パブリックというものは、その存在が知られなくては、意味がない。…場があり…活動が生まれているということを、関係のないひとさえ、視認しながら通り過ぎていくということが、大事なのだ。…仲間内の、密室のパブリックなんてものは、パブリックではない。(P168)