夢みる名古屋☆

 ふわふわとしたタイトルで、流行のナゴヤ本かと思ってしまう。だが内容は強烈な都市開発批判だ。過激な超左翼と言ってもいいかもしれない。だが、読み進めると、名古屋・愛知県の戦前から戦後にかけての、今はほとんど語られることのない歴史が明らかにされ、こうした見方もあり得るということは理解できる。
 まず「はじめに 名古屋という難問」で「私はね、好きじゃないんだ、この街は。」(P006)と強烈に名古屋への嫌悪を語る。ちなみに、筆者は愛知県立旭丘高校中途退学というから、名古屋には多少の縁はあるはず。東日本大震災を受けて、東京から愛知県春日井市へ移住した。文中でもかなり具体的に名古屋などの街を詳述している。
 「はじめに」で以下にように書く。

○都市開発は、地域に固有の文化をはぎとり、平板なものにならしていく。その典型的なプロセスを示したのが名古屋である。……近代都市計画、モータリゼーション、そして、ジェントリフィケーションへ。それはどんな歴史をもった都市であっても「名古屋のような街にされてしまう」ということである。……名古屋の都市の歴史を知ることは、現代の都市が一般的に直面している脅威を考えることでもある。(P012)

 第1章「1918鶴舞」は、近代都市計画批判である。名古屋では都市計画の父として評価の高い石川栄耀を第一の戦犯として批判する。

○石川栄耀は都市の未来を説く都市整備事業の宣伝マンとなる。……石川たちが事業の主眼においたのは、地主たちと銀行家たちをその気にさせ、区画整理組合を形成させることだった。石川は饒舌に語る。なぜなら、その都市改造の結果について、内務省が責任を負うことはないからである。彼は自由に夢を語ることができる。内務省の権威と、あらkぁじめ免責されている自由さが、人びとを魅了していく。そうして名古屋は全国でもっとも先進的な都市改造のモデル地域となるのである。(P027)

 ここで、矢部が紹介する事例が興味深い。1924年、東京で関東大震災後の復興にあたり、土地区画整理事業をめぐり、地主と内務省との間で繰り広げられた論争だ。「道路が拡幅されれば、そこに面している土地は恩恵を受けるのだ。土地の一部を無償で提供しても、それを上回る利益があるのだ」(P028)と主張する内務省復興局に対して、「道路が拡幅されることで、路面の利益が損なわれてしまう……道路は適度に狭くなければ、買い物客の賑わいが失われてしまう」(P028)と主張する小売商人たち。矢部はさらに「住民にとっても歓迎できない話であった。住居には、外界から保護されている感覚が必要だ。住居に面した通路は……ある程度は閉ざされていることが望ましい」(P029)と書く。
 しかし東京ではなかなか進まなかった復興都市計画も、名古屋では大々的に実行されていく。それはたぶん、名古屋の商業集積が東京ほどではなかったこと、そして第2章「1965小牧」で書くように、名古屋は産業都市だったことが要因だと思われる。

○名古屋は、商人資本が相対的に弱く、産業資本が圧倒的に強いという特徴をもっている。……商人資本は大阪と東京に向かって集積を強め、……産業資本は……あいだ……を埋めるように工場を建設し……ていくのである。……私たちが通常イメージする大都市の姿とは、商人資本によって人と物と情報が集積する都市であって……都市というものをそのように定義するのなら、名古屋は都市ではない。ここは東海道メガロポリス工業地帯の結節点のひとつにすぎないのである。(P090)

 このことを表現するのに、矢部は第3章「1898世界デザイン博覧会」で次のように書いている。

○愛知と岐阜はほとんど同じ文化圏であるはずなのに、どうしてこうも違うのかと首をひねるぐらいに、岐阜はおしゃれ。……名古屋の街にはまったく色気がない。名古屋の街は直線的で、大振りで、なにもかも産業的で、細部の仕上げがガサツである。……高度に発達した産業都市は、街を乾燥させ、人間をガサツにしてしまった。(P171)

 案外、当たっているかもしれない。
 第1章後半では、戦災復興都市計画について以下のように批判する。

○戦災復興都市計画は、内務省の最後の大事業であった。それは“戦後”“平和”という看板を掲げながら、ファシズムの時代の思想を億面なく発揮する機会になったのである。……名古屋の戦災復興都市計画を推進したのは、二人の内務官僚出身者、佐藤正俊・名古屋市長と、田淵寿郎・名古屋市助役である。名古屋を“もっとも魅力的でない街”にした戦犯は、この二人だ。(P049)

 石川栄耀にしろ、田淵寿郎にしろ、名古屋の都市計画の父と崇められている。そうした見方からすれば本書などトンデモ本の極致となるだろうが、矢部のように、人間的な猥雑さこそ都市の魅力と考える立場からすれば、当然こうした評価になることは理解できる。
 第3章「1989世界デザイン博覧会」の終盤で、矢部は以下のように書く。

○1990年代以降……上京する移住者たちは……生まれ育った地域に生活の荒廃を読みとったから移動するのである。ここで考えられるべきは、東京の求心力ではなく、地方の遠心力である。……人口の過密・過疎は、欲望の過密・過疎の反映である。生活文化をめぐる欲望の舞台となることが、新しい都市の条件になる。……東京には、人びとの野心と能動性を受けとめる社会があった。……異種混交的で、もしかすると革新的な、生活空間があるのだ。(P194)

 近代都市計画が今の名古屋を作ったとして、では今後はどうなるのか。どうすべきか。現在の都市計画者に求められるのはそういうことだ。思想家である矢部氏が書くのは、現状及び過去に対する批判である。今も東京をめざす人の流れは変わらないかもしれない。だが一方で、地方へ向かう流れも次第に太くなりつつあるように見える。その時に、地方に猥雑なリトル東京を作ってもそれはたぶん違うだろう。その地方にしかない街、アイデンティティのある街が求められているような気がする。矢部氏が言うような岐阜県のような街か? でもそれは愛知県や名古屋にとっても同じこと。
 一方で、矢部氏が批判する「大きな都市計画・都市開発」は今後どうなっていくのか。かつて私は、行政の土木担当者に「道路はどうやって縮小していくのか」と聞いたことがあったが、彼らはあっけに取られた顔をしていた。人口減少時代のインフラのあり方について有効な意見や研究はあるだろうか。もしあればそれを読んでみたい。
 最後に蛇足だが、本書の中で、トヨタ自動車の経営手法、大須事件、そしてベトナム戦争の発端に関する記述があった。これも興味深かったので、以下に引用しておく。
 全体的にかなり現状批判的な本だが、糧になる部分もけっして少なくない。せめて未来は正しい方向へ進むといいのだが、何が正しく、何が明るいかは人によって異なる。多くの人びとにとって、未来の人びとにとって。都市計画者にできることは何だろう。

○自分たちは、フォードのような自社一貫生産をめざすのではなく、名古屋中の中小企業を自動車産業に巻き込んでいくのだ、という大方針をたてたのである。……それは、初発から問題となっていた製造コスト問題は、下請企業のネットワークによって解決していく、ということである。……発注者の優越的地位を利用して下請にコスト削減を迫り、“乾いたぞうきんをさらに絞っていく”と表現されたトヨタ自動車の手法は、すでにこのときに定式化されていたのである。(P035)
大須事件が特徴的であるのは、警察が圧倒的武力で制圧し、名古屋地裁が大量の有罪判決を出したことである。……これは騒擾事件というよりも、警察による一方的な陸虐事件と言ったほうが正しい。……大須事件は、サンフランシスコ講和条約後の日本権力の回復をまざまざと見せつける事件となった。(P072)
○1954年、……ベトナムの主権は南北に分割され、北度17度線を暫定的軍事境界線とした。……ジュネーブ協定では、停戦から2年後に統一選挙をおこなうこととした。第二次インドシナ戦争の発端は、南ベトナムのゴー・ディン・ジェムが南北統一選挙の実施を拒否して政権に居座り、アメリカがそれを支持したことから始まった。(P081)

 最後にもう一つ、「あとがき」の最後に、「衛生概念」について書いている。それも引用しておきたい。筆者の次の課題ということのようだ。

○衛生概念は、近代都市計画の時代から現代のジェントリフィケーションにいたるまで、行政権力の重要な武器になってきたものである。衛生概念は、専制政治と親和的で、文化に対して排他的である。……衛生概念は、文化に対する迫害、統制、禁欲に、正当性を与える重要なイデオロギーであり続けている。(P222)

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