モダニズム崩壊後の建築

 先に読んだ「ル・コルビュジエがめざしたもの」の続編。本書では副題「1968年以降の転回と思想」にもあるとおり、1968年以降の現代建築に対する批評などを収録している。本文中にもあるが、現代建築と近代建築の境はどこになるのか。筆者は前書で近代建築、本書で現代建築を対象としていると考えていいだろう。とは言え、第1章「1968年前後の建築」に収められた評論はどれも難しい。特に最初の「1968年―パリの五月革命をめぐる思想と建築」はあまり理解できなかった。4つ目の評論「大阪万博の建築群」あたりからようやく楽しく読めるようになる。その前のアーキグラムやコープ・ヒンメルブラウに関する評論は、建築とは何かと問うものだ。まさにそこから現代建築は始まったのかもしれない。
 第2章と第3章では、住宅と窓などの要素について、そして装飾やファッションを取り上げた論考が並ぶ。なかでも「かわいい」と「ヤンキー」についての評論は面白い。単に私でも理解できるということかもしれないが、丹下健三などに代表される大文字の建築から、建築は今や皮膚感覚なものになりつつある。だからこそ、ファッションとの違いを考えることに意味がある。
 そして最終章「ポストバブルの日本建築」では、オルタナティブ・モダンを取り上げる。伊藤豊雄をめぐる現在の若手建築家たちが何を行っているのか。それがモダニズム建築の再定義、オルタナティブ・モダンではないか、という論考は説得力がある。リノベーションと言い、使い手目線と言っても、まだまだ建築と呼ばれる物体は鉄やコンクリートやガラスでつくられ、地面に固定されている。だからオルタナティブ・モダン。同時代の建築が今後いかに変化していくか。“日本”の建築は今後どう変わるのか。それを観ていくときに、五十嵐太郎という同時代人がいることは心強い。これからも五十嵐太郎の論評からは目を離さないようにしよう。

○そもそも日本人が、4・5階建て以上の建物に住むようになったのは、基本的には戦後からのことであり、せいぜい半世紀くらいしか歴史がない。……したがって、戦後の団地や高層アパートは、日本の歴史において……中層以上の建物に住む人の風景をもたらした画期的な事件だった。/しかし、今や規制緩和によって、タワーマンションがあちこちの駅前に増殖する時代を迎えている。……明らかにこれは21世紀に出現した新しい集合住宅の風景である。(P158)
モダニズムの時代に船が機能主義的なデザインの理想とされたことはよく知られていよう。その結果……近代建築では、しばしば丸窓が使われている。……ところで、客船の方は逆に陸上の建築に憧れていた。むしろ角窓を理想とし……一等の客室では四角い窓をなるべく用いている。……モダニズム建築が動く機能的なホテルとして客船の窓を模倣したのに対し、客船の側は安定した環境の建築になろうとしたのである。船のような建築と、建築のような船。一種のねじれというか、両者は互いを理想化していたのだ。(P199)
○かつて世間から認められないアンダーグラウンドサブカルチャーとして育成した「おたく」が、いつしか手のひらを返したように、「オタク」というラベルに張り替えられ、国策として推奨されるようになった。……だが、そのとき文化の意味は変容していないか?/筆者は、「かわいい」と「カワイイ」をめぐっても、同様の構図が存在しているように思う。……一般人は「かわいい」を用い、「カワイイ」という言葉は……洗練されたマーケティングの論理が働くときに使われているのがうかがわれる。(P276)
○ホールの議論を都市論に置き換えれば、「コード化」は計画者の側が、一定の目的に従って、管理しやすい機能的な空間をつくることになるだろう。そして「脱コード化」は、居住者や旅行者がいかに都市を使うかということになる。計画された広場や公園で一時的に休むのは、あらかじめ想定された使い方だが、そこで寝泊まりするホームレスは、空間の新しい意味を生産する。……若手建築家のリサイクルも、都市の「脱コード化」にほかならない。(P336)
ポストモダンモダニズムに対する修辞学的な変形だとすれば、イトー・スクールのオルタナティブ・モダンは言語体系そのものを組みなおす。つまり……せんだいメディアテークが提示したように、そもそも柱とは何か、壁とは何かにさかのぼって、言語のレベルで変革を起こす。オルタナティブ・モダンは、近代を特徴づける主要な建材である鉄、コンクリート、ガラスを、現在も使い続けているという意味において近代の枠組に含まれる。
だが、コンピューターや新しい思想をデザインに導入することで、まだモダニズムが十分に展開しきれていなかった別の可能性を発掘するものだ。(P381)