岐阜市の歴史的町並み

 岐阜市の川原町辺りを歩いたのはもう14年も前のことだ。先月、日本建築学会東海支部都市計画委員会の主催で、岐阜市歴史まちづくり課の方から「歴まち計画」について聞き、現地を案内していただく見学会が開かれた。久しぶりに岐阜市の町並みが見たくて参加した。
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 「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」(通称:歴史まちづくり法)は平成20年に制定されている。これを受けて岐阜市が「岐阜市歴史的風致維持向上計画」(略して「岐阜市歴まち計画」)を策定したのが平成25年。昨年、2017(平成29)年には織田信長稲葉山城を攻略し、「岐阜」に改名して450年を迎えた。岐阜市ではこれを機に「岐阜市信長公450プロジェクト」を大々的に開催するとともに、岐阜城跡周辺の整備を精力的に進めている。
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 「岐阜市歴まち計画」で歴史的風致として選定しているのは全部で7風致。このうち岐阜城跡周辺の「長良川鵜飼と鵜匠の家にまつわる歴史的風致」、「岐阜まつりと岐阜城下町にまつわる歴史的風致」、「岐阜提灯・岐阜うちわと川原町の町屋にまつわる歴史的風致」の3風致については、重点区域「金華・鵜飼屋区域」(面積:約550ha)に指定されている。重点区域内では、岐阜公園再整備事業や岐阜公園三重塔修復整備事業、織田信長居館跡発掘活用事業、歴史的建造物群景観形成助成制度や景観重要建造物等助成事業などの拠点施設整備に係る事業や、無電柱化推進や道路整備等の周辺環境整備に関する事業、そして「信長学」推進プロジェクトや長良川まつり補助事業や長良川中流域の文化的景観保存調査事業などの諸事業を展開している。順次、説明をいただき、また見学をさせていただいた。以下、見学ルートに沿って記録しておきたい。
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 説明を川原町の入り口、「ぎふ長良川鵜飼 鵜飼観覧船待合所」の2階で受け、それから見学会に出発した。長良川沿いに長良橋の下をくぐると、20艘近い鵜飼遊覧船が並んでいる。鵜飼シーズンは5月11日からなので、まだ営業は始まっていなかったが、準備万端という感じだ。川の向かい側には長良川温泉街の建物が並ぶが、その一帯が鵜匠家や旅館が立ち並ぶ鵜飼屋地区だ。この鵜飼屋地区と出発地点だった川原町地区は堤外地、すなわち河川の中にある。
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 しばらく歩くと、鵜飼観覧船の造船所がある。全国唯一の市営の造船所で、ちょうど2艘造船中。ついで向かったのが岐阜公園。御手洗池の横を通り過ぎると、子供向けの遊具が並ぶ「ちびっこ天下広場」がある。民家イメージの滑り台や物見やぐらから滑り降りるスライダーなどが子供たちに人気。もともとあったということもあり、こうした施設も必要とのこと。子供の歓声を聞きつつ通り過ぎると、山腹で信長公居館跡の発掘が行われている。発掘中の手前の広場はかつて池や滝のあった庭園で、そこに面して褶曲した地層が見える。この前でブラタモリが撮影を行った。その広場から急な坂道を登っていくと、真新しい三重塔が聳えている。
 三重塔は大正6年大正天皇即位を祝う記念事業として建立。高さ約22m。伊東忠太が考案、建造場所の選定は川合玉堂が川原町の茶室から金華山を眺めて決めたという。完成後まもなく軒が下がり始め、補強柱で軒先を支えている。今回修復にあたって、この補強支柱は取り去り、木材の腐朽部分の補修や鬼瓦等の復元などを行い、彩色を施した。塔の内部では心柱が地面から浮く懸垂式工法を見ることができる。
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 信長公居館跡はまだまだ発掘中だが、当時の石垣も残っている。ただし木材などは、関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城後、加納城に転用されたという。現在の岐阜城明治43年に復興天守閣が完成したものの、戦争で焼失。昭和31年にRC造で再建された。発掘調査中の公園の中をぶらぶらと下って行き、名和昆虫博物館、歴史博物館の横を通って、旧城下町地区に入っていく。
 まず向かったのが岐阜大仏。日本三大仏の一つと言われ、「そんな大仏あったっけ?」とバカにしてはいけない。高さ13.7mは奈良の大仏などにはかなわないが、木材の骨格に粘土を塗り、経文を張って、漆を施し、さらに金箔をおいた、乾漆仏としては日本最大の大きさ。天保3(1832)年完成なので、既に建立後185年が経っている。正面から見上げると優しい笑みで見下ろされ、「癒し系大仏」と案内の方が評していた。
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 ついで長良橋通りを西へ歩く。南側に妙照寺。北側には常在寺。ここには齊藤道三肖像画が所蔵されている。しばらく行くと、小さな水路を跨ぐが、ここが武家町と商人町の境。岐阜の町は岐阜城落城後、武家町は加納城の周りに移るが、商人町は長良川の水運の利があったため、そのまま残ったそうだ。魚屋町から久屋町、西材木町と北へ上がっていくと、古い民家が多く残っている。細い格子がきれいに洗い込まれた商家が並ぶ。御鮨街道とも呼ばれたそうだが、各商家の情報などが整備されていないのが残念。川原町と並ぶ素晴らしい景観が残っている。
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 川沿いの道路の手前に古い建物もうまく利用し、雰囲気のある木造の商業施設がある。ナガラガワフレーバー。カフェやベーカリー、ギャラリー、その他センスあるショップが並び、客を集めていた。その手前の路地を入っていくと、黒塀の倉庫の脇をカギの手に曲がり、次の通りに出る。ふり返ると、いい感じの商家。妻入りの屋根に平入りの下屋が通りに面している。背の高い格子戸が付いて、荷を出し入れの際には大きく前面を開けるのだろう。その隣には平入りの商家が続く。
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 さらに路地を東進。うだつのある小振りな商家が可愛い。このあたりの民家は2階に座敷があって、東側が開けて金華山岐阜城が眺められるようになっているのだという。ようやく大通りに出て、水路を渡り、川原町広場へ出る。ようやく川原町に戻ってきた。川原町広場から通りに上がる坂道の両側には玉石積みの石垣があって、蔵が載っている。右が青木家住宅土蔵。左は後藤市三郎商店土蔵。通りに出ると両側に趣のある商家が並び、続いている。赤い郵便ポストが建つ川原町家はカフェ。向かい側には明治30年建築の十六銀行旧富茂登出張所がある。その後は次第に強くある雨脚と、宵闇が迫る中、川原町の町並みを歩いて回った。
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 14年前に比べるとすっかり修景されてきれいになった。ラ・ルーナビエーラやホテル十八楼の前には正装をした案内スタッフが立っている。ラ・ルーナビエーラは覚えているけど、ホテル十八楼なんてあったっけ。岐阜うちわを製造販売する住井富三郎商店のことは覚えている。改めて当時のHP「岐阜のまちづくり/金華山・川原町・中心市街地活性化:(遊)OZAKI組」を見て、感慨にふけった。岐阜市はすっかり魅力的な街になりつつある。
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