読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

井上章一 現代の建築家

すまい・まちづくりノート

 タイトルを見て、伊東豊雄や手塚貴晴などの現代建築家を語る本かと思っていた。予約して手に取って思わずびっくり。長野宇平治から始まって、伊東忠太、吉田鉄郎、渡辺仁、松室重光、妻木頼黄。ついでなので全員の名前を書いておく。武田五一、堀口捨巳、前川國男、坂倉準三、丹下健三谷口吉郎白井晟一村野藤吾吉田五十八菊竹清訓黒川紀章篠原一男磯崎新安藤忠雄。最後の二人はいいとして後はみな物故者。しかも全503ページと分厚い。これは読み終えることなく返すかなと思いつつ読み始めた。
 ところがこれが面白い。単にこれらの建築家を紹介するのではなく、筆者らしい視点から彼らの設計思想などを的確に批評し、あぶりだしている。しかも多くはこれまで通俗的に語られてきた建築家像をひっくり返し、井上らしい解釈をしてみせる。そう、まるで建築探偵の謎解きをしているように。
 井上章一の著作と言えば「夢と魅惑の全体主義」を思い出すが、その中でも帝冠様式は軍部が命じたものではなく、クラシック様式が崩れ始めた当時の新たな表現として建築家が採用したものに過ぎないと主張している。
 本書でも戦前戦後における様式について述べる部分が多い。また、丹下はなぜ都市論を語りたがったのか。村野藤吾の算盤勘定とは何だったのか。白井晟一の純朴。磯崎新の計算など、真実は別として井上章一の読み解きは面白い。
 分厚い本を持ち歩く気がせず、毎日寝る前に少しずつ読み進めた結果、読み終えるのに1ヶ月以上もかかってしまった。でも読み始めると面白くて引き込まれる。さすが井上章一。これからもこの人の建築史論は見逃さないようにしよう。

井上章一 現代の建築家

井上章一 現代の建築家

●コンドルは、イギリスから日本へとむかうなかで、中東やインドの形に光をあてた。伊東は、日本建築の西洋化を想いえがきつつ、イスラムなどへよりそっている。コンドルは西から東を、伊東は東から西をむいていた。ふたりのまなざしは、あべこべのむきへ、そそがれている。しかし、地理上の中継地にある形へすがろうとしたところは、かわらない。・・・けっきょく、伊東の建築観は、どこかでコンドルのそれを反転させていた。(P48)
●西洋化をめざすほうが、よほど国家意志にはそっていただろう。西洋の様式建築や国際的なモダニズムと、ともにあろうとする。そういう建築家たちのほうが、日本国のあるべき姿には、より強く心をくだいていた。/だからこそ、前川も「日本趣味」に、自由主義ゆえの堕落を感じとる。あんなのは、国家意志からのおちこぼれだと、ごく自然に思えたのである。(P97)
●社会を相手に、必死で説得をこころみた。詭弁めいた都市論も語りつつ、なんとか自分の仕事を世にみとめさせようとする。そのころの丹下は、意匠をみがきあげることにも、全力をつくしていた。・・・これだという形がでてくるまで、妥協はしなかったと思う。手品師の口上をほうふつとさせるような都市論にも、よりかからざるをえない。そんな状況こそが、丹下作品にりりしさや張りを、あたえていたのではなかったか。(P270)
●渡辺に、村野がいだいたほども親ナチ感情は、見いだせない。だが、戦後の建築史は、その渡辺と渡辺作品に、戦犯めいたレッテルをはりつけている。・・・私は、いわれのない烙印をおされた渡辺が、気の毒であったと思う。・・・村野をまもりたい一心で、ほかの誰かをおとしめるようなやり方は、みとめがたい。(P332)
●スカイハウスのたどった半世紀については、べつの見方もなりたちうる。・・・夫婦の空間という当初のつとめは、もうはたさなくなった。が、ここは「機能をすて」た「抜け殻」として、今日なおかがやきをはなっている。・・・メタボリズムのこころみは、中途半端におわったと言うしかないだろう。しかし、ここでは、空間がみごとに「機能をすて」たのである。やはり、菊竹的建築論が実をむすんだ作品であったと、みなしたい。(P384)