名古屋城の秘密

 本丸御殿の整備が着々と進む名古屋城。先日は昨年5月から一般公開されている玄関と表書院の見学記を投稿したところだが、今度は考古学の先生による「名古屋城の秘密を読み解く」と題する講演会を聞きに行った。
 講師となっていただいたのは奈良大学学長の千田嘉博教授。名古屋市出身の考古学者で城郭考古学が専門。考古学と言えば古墳などの遺跡調査を中心に、有史以前を対象としていると思われがちだが、「そうではありません」というところから講演はスタートした。これまで奈良時代以降は古文書を中心に、歴史学の立場から研究されることが主だったが、最近は発掘調査等を行うことで、古文書だけではわからなかったことが次々と明らかになってきている。例として挙げられたのが、島原の乱の舞台となった原城址の調査。調査で発掘された鉛玉などから、城内で撃ち込まれた鉄砲玉を十字架やもう一度鉄砲玉に鋳造し直していたことなどがわかってきているそうだ。
 それで名古屋城だが、「新修名古屋市史」には近世の軍学者の評価として「縄張りよろしからず」と紹介されている。本当にそうだろうか。実は名古屋城は当時最強の軍事要塞として日本城郭史の頂点を極めたほどの城だったことを以下説明していく。
 まず、名古屋城天守閣は大天守と小天守が並ぶ連立式天守と言われるもので、日本の城郭史上もっとも発達した天守形式であり、大天守の延床面積はわが国最大。総塗込め式の耐火性の高い城壁の内部には厚さ12cmのケヤキ板が配され、鉄砲玉の貫通を阻止。さらに鉄板張りの扉や石落としなど敵の接近を許さない仕掛けが随所にあり、当時最強の天守建築と言えるとのこと。
 さらに先生が紹介するのは尾張藩お抱え大工だった中井家所蔵の「なこや御城惣指図」である。これには現在の大天守閣と南側の小天守閣に加え、北西側にも小天守閣が計画されていたことが描かれている。大天守の西面石垣には小天守への渡り橋の跡と見られる痕跡が残っており、一部着工したもののその後変更になった可能性も考えられる。いずれにせよ実現していれば、他の城郭にはない独特の形式の城郭となっていた可能性が高い。
 さらに先生が長い時間を取って強調したのが「馬出し」。これは本丸の入り口の先に四方を堀で囲まれた島状の広場を設け、さらに直行して橋を設けて二の丸につなげていく形式の入り口のことで、この島状の広場を「馬出し」と言う。広場は周囲に多聞櫓が巡り、敵が天守を攻めるために馬出しに侵入すれば、四方の多聞櫓から一斉に砲撃し、敵を一網打尽にする仕組み。しかも馬出しへの入口は枡形となっており、侵入しようとすれば本丸に背を向ける形になり、背後から射撃・砲撃ができるようになっている。
 こうした馬出しを本丸の周りにぐるっと配置した名古屋城はまさに日本の近世城郭の到達点と言えるとのこと。同様の馬出しはイギリスやフランスの城郭にも見られる世界の城郭のグローバルスタンダードであり、これに到達した名古屋城はまさに究極・集大成の城郭だと持ち上げた。
 しかし残念ながら現在この馬出しは、1897(明治30)年の明治天皇行幸、1915(大正4)年の大正天皇御大礼などに伴う改修で埋められてしまい、大きな広場となってしまっている。現在、本丸御殿の復元工事が進むが、馬出しも復元してこそ本来の名古屋城の姿が実感できるはずで、ぜひとも馬出しの復元を期待したい、と述べて講演は終わった。
 知らなかった。確かに本丸前の広場はだだっ広くて、大勢の人が集まるにはいいが、緊張感に欠ける。堀をもう一度掘り返すのは本丸御殿復元に比べればはるかにたやすいことだろう。ぜひ名古屋城の復元を進める名古屋市関係者、特に河村市長には英断を期待したい。そもそもこんな事実を知らなかった。市長の耳に入れるところから始める必要があるのかもしれない