「これからの防災まちづくり」は情報共有と超ポジティブ思考

 東京大学生産技術研究所の加藤孝明准教授の講演を聴く機会があった。その超ポジティブな発想に驚愕した。
 講演のタイトルは「防災の基本とこれからの防災まちづくり」。最初に先生が専門とする「地域安全システム学」(先生曰く、東大生産技術研究所では一人ずつ他にない専門を名乗ることになっているとのこと?)について紹介をし、続いて本題の防災まちづくりの話に入っていったが、最後は時間切れでかなりの駆け足というか大跳躍(途中抜け)で終わってしまった。残念。もっと聞きたかった。
 最初は「1.時代の潮流感」について。右肩上がりから右肩下がりへ。低成長、人口減少、少子高齢化、逆都市化(市街地の縮退)などが進む一方、新しい公共などまちづくりの進め方に新しい潮流が現われている。これまでの「山を登る時代」にはゴールは一つだったものが、これからの「山を下る時代」にはゴールもルートも多様化していく。東京スタンダードから地方での新しいモデル創出が期待される状況になっている。行政も財政難と地方分権が進む中で、これまでの「ふくらむ」縦割り行政であればどこかで対応されてきたものが、これからの「縮む」縦割り行政では対応できない行政ニーズが発生してくる。社会制度は「慣性の法則」に陥りがちだが、過去の慣例に捉われず根本から考え直すこと、生活者としての常識の厚みを増やすことが求められると総括した。
 続いて「2.東日本大震災の復興について」。東日本大震災の3年前、中国で発生した四川地震では3週間で対口支援を中心とする復興方針が示され、5ヶ月後には地方政府による復興基本計画案が示され、2年半で荒唐無稽と思われた復興計画が実現した。これに対して東日本大震災の復興は遅れている、というより、「不自由な感じがする」と言う。
 自然災害に立ち向かう防災まちづくりのためには、「堤防や施設などハードによる災害防御」「建築制限や形態規制等により危険なところに住まないハザードからの退避」「人間と地域社会で安全を確保する対応力」の3つの要素をバランス良く対応することが必要である。しかるに現在の東日本大震災の復興の現状にはいくつかの問題が見られる。
 まず、「被災地主義・被災地主体」が結果的に被災地への責任の押し付けになっているのではないか。「被災者の声を聞く」「被災者に寄り添う」というが、余裕のない被災者に決定を委ねるのではなく、まずは「被災者が落ち着いて考えることができる環境・状況をつくること」が重要で、拙速に決定した復興計画は適宜、計画の調整・再検討を行う必要があると指摘する。
 またいろいろな意味で中途半端になっている。地方主権と中央集権的な縦割りの混在、中途半端な政治主導(地元負担のない拙速な復興予算と時間マネジメントのない締切主義)などにより、結局、既存の復旧・復興システムが先行し、従来の縦割り事業が並んでいるだけという状況になっている。
 本来であれば、時代の変わり目にあって、先述の「時代の潮流感」を踏まえた新しい試みを創造し、「定型」から脱却すべきだったのに、それができなかった。復興の本来の目的は「持続性のある明るい未来を描き、実践すること」だったはずなのに、「復興事業をスケジュール通りに進めること」が目的となってしまっている。
 我々は日頃から様々なリスクの中で暮らしているはずなのに、東日本大震災を経験して「安全神話の崩壊」と言いつつ、これまで以上にヒステリックに安全を求める「安全至上主義」に陥っているのではないか。また、余裕のない被災者が「急いでほしい」と言ったからと、何はともあれ「急ぐこと」が最優先されている現状が見える。これらが復興の現状に「不自由さ」を与えている。
 こうした現状認識を披露しているうちに残り時間が少なくなってしまった。
 説明はなかったが、レジュメに書かれていた「過去の災害事例からみた災害復興の6法則」を書き写しておきたい。中でも(6)の意味について、いつか説明を聞きたいと思う。
(1)どこにでも通用する処方箋はない
(2)災害・復興は社会のトレンドを加速させる
(3)復興は、従前の問題を深刻化させて噴出させる
(4)復興で用いられた政策は、過去に使ったことのあるもの、少なくとも考えたことがあるもの
(5)成功の必要条件:復興の過程で被災者、被災コミュニティの力が引き出されていること
(6)成功の必要条件:復興に必要な4つの目のバランス感覚+α(外部の目)
 (時間軸で近くを見る目と遠くを見る目、空間軸で近くを見る目と遠くを見る目)
 続いて、「3.東日本大震災以降の社会の『気になる』雰囲気」として、(1)安全至上主義、(2)自助・共助・公助のバランスの崩れ、(3)マスコミ報道の偏りとバランス感覚の悪化、(4)被害想定のインフレ、(5)ハザード情報・リスク情報へのヒステリックな対応の5点が挙げられた。
 中でも(3)では、地震による直接死とは無関係な帰宅困難者液状化の問題が大きく報道された。帰宅困難者問題は体験した人が多く、視聴率につながるとマスコミで多く取り上げられた。また(4)については、「最大クラス」の被害想定が公表され、これを対象に従来型の防災計画で対応しようとする傾向が見られると指摘する。愛知県では「最大クラス」とは別に、「対策目標クラス」を対象にしようという議論もあるようだが、いずれにせよ、「最大クラス」にいかに対応するかの作法を考える必要がある。
 また、「東日本大震災の復興議論における『気になる』雰囲気」として、東日本大震災の復興計画(L1/L2対応など)が今後のモデルになりつつあることへの懐疑を語るとともに、「土地利用規制は土地利用禁止ではない」として丁寧な説明が必要と指摘された。また、過去の事例からしても、「防災だけ」のまちづくりは成立しない。繁栄と安全の実現に向けて、「防災にも」取り組むまちづくりが求められると指摘する。さらに、避難所の確保→延焼緩衝帯の整備→重点整備地域の整備という過去の歴史を逆に読んで、地区内で延焼拡大しないまちづくり→延焼しても緩衝帯でくい止める→避難場所で命を守るといった順番で防災まちづくりを考えていく視点が必要だと話をされた。
 「4.防災の基本」では、都市環境を無批判に安全であると前提として考えがちな人間の本質を理解して防災対策を進めることが必要だと指摘する。自助・共助・公助については得てして、公助の言い訳、共助の自己満足、自助の無策に陥りがちだと指摘した上で、起こりうる地域の被災状況について共有認識を持つところから始めることが肝要だとアドバイスする。
 また、過去の災害の学び過ぎはかえってよくない。今の時代、自分の地域に翻訳して防災対策を考えることが重要。そのためには「環境と人を看る目」と「想像力」が重要である。また、地震被害想定はあくまでも限定条件付の参考値だということをよく理解して自らの地域の災害状況を描き出す努力が必要とアドバイスされた。
 「5.これからの防災」では、行政への要求型の時代は終焉し、共助の力が必要不可欠な時代となってくる。葛飾区新小岩北地区で取り組んでいる地域主体の防災まちづくりの事例を紹介しつつ、「住民先行・行政後追い型」の自助・共助・公助が必要だという話をされた。
 危険性をどう捉えるか。「災害危険は地域の資源」と考え、地域の力と協働を高めるきっかけと捉えることが必要。厳しい環境だからこそ、人間・社会の英知が結集する。安全性の高い地域で備えが不十分であるよりも、安全性が低いゆえに万全の備えをしている地域のほうが、より災害に強いのではないかと価値観の転換を促す。木造密集市街地についてもマイナスからゼロをめざす「20世紀型の価値観」から、木密ゆえの親密な人間関係を生かした新しいライフスタイルと安全な市街地をめざすマイナスからプラスを目指す「21世紀型価値観」へ。超高齢化の進展も、地域への回帰、元気高齢者は地域の資源、年金は社会からの給料と考える。過疎化・人口減も、環境容量に応じた適切な人口への移行過程と考えようと、究極のポジティブ思考で防災まちづくりに取り組むことを提言。うーん、すごい。最後は「災害危険は地域の資源」とまで言い放った。
 そのために、(1)災害リスクを正しく理解、(2)これまでの取り組みを検証、(3)持続する仕組みを地域社会に組み込む、の3つの目標を掲げられた。また行政側に対しても、地域要求・個別対応型ではなく、地域力を引き出し持続性を高める地域支援型の防災まちづくりが必要と指摘する。そのためには行政内部の総合的な対応が必要である。何より、現状やリスクについて地域住民と正しい理解を共有することが重要。そしてその後の防災まちづくりを進めるためにも究極のポジティブ思考が支えになる。なるほど。
 自信を持ってはっきりと話す姿勢に圧倒されて、あっという間の2時間だった。超ポジティブ思考が防災まちづくりを推進する。そして情報共有。その二つが心に残った。
 「防災目標クラス」を設定し、堤防や避難施設等を整備するとともに、「最大クラス」に対してソフト対策も含めて対応を考えるというのが、現在の教科書的な防災対策だが、その際に、「最大クラス」への対策は「防災目標クラス」に対する対策が完了していることを前提に考えていないだろうか。防災まちづくりは常にその時点での防災対策の「現状」を理解し、最大クラスの災害に対して、その時点の人々がどう「対応」するかを考える必要がある。その意味では常に防災まちづくりは変化していく。だからこそ持続し継続していくことが必要。そして被災後の地域も持続していく。そのことに思いを馳せたまちづくりが必要となる。講演を聴きながらそんなことを考えた。