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風景という知

 久し振りにオギュスタン・ベルクの名前を見て思わず注文してしまった。一昨年に発行された本。わずか119ページと短いながら、中身は難解。かなり苦戦してしまった。オギュスタン・ベルクってこんなに難解だったっけ。それでも父親の紹介や母親のスケッチ、妻の写真が使われるなどアットホームで回顧的な論文でもある。

 合理的・二元論的な近代的パラダイムにより「風景についての知」は膨大に溢れかえっているが、「風景の知」はかえって衰弱し、その結果、多くの風景が無残に壊されていっていると嘆く。中国の「山水」を巡る漢詩を引き、和辻哲郎の「風土論」に依って、風景の本質に迫る。さらに、光の物理的性質と文化的認識の差異や中国の風水思想などを示して、風景がいかに立ち現われるか、例示として語る。風景とは物質的で、かつ精神的である。両者に通態化していることを説明する。確かに、我々は風景を感じ、しかし同時に物質的にある。そのことは理解できる。

 1942年生まれ、71歳とまだまだ若い。本書の至るところに日本への愛情や親しみの念がにじみ出ている。80年代末から90年代にかけてオギュスタン・ベルクの風景論を次々と読んだ。もう一度振り返ってみようか。読み直すにはやや辛い気もするが。

●私たちの祖先は、風景に心を向けたわけではないのに、驚くべき風景知を演じている。いっぽう私たちは、風景についての知で溢れかえりながら、風景知があからさまに欠如している。どうしてそういうことが生じるのだろうか。(P8)
●風景は人間の視線のうちにあるものではない、それは事物の現実のうちに、つまり私たちと環境との関係のうちにある。(P49)
●風景は見えるものに従い、しかも見えないものに従う。物質的なもの、しかも精神的なものに、である。風景の本質、風景の現実とは、このような両義性なのだ。(P76)
●<近パラ(西洋近代の古典的パラダイム)>が根本的にその原理において客体としての宇宙=普遍、幾何学的で機械的、純粋に量的で完全に中立的な宇宙、しか認識しないからである。・・・逆に風景は、私たちの感覚に、つねに特殊で中心的・異質的・方位的な空間、地平・・・によって限定された空間を差し出す。(P83)
●風景・・・の実体は、必然的に二つの段階における通態化に従う。その一つは、生命圏という存在論的水準で行われる通態化であり、もう一つは、風土という存在論的水準における通態化である。私たちのこの二つの存在次元の具体的関係こそ、まさしく通態化の本質である。私たちの動物身体と風土身体、私たちの精神と私たちを取り巻く事物……のこうした行き来―そこから現実が生まれる。そこから風景が生まれる。なぜなら、私たちにとっては、今日それが現実だからだ。(P114)