住宅の歴史社会学

●住居が固定された物質ではなく社会的な過程であるならば、その再編成もまた、社会的なものとして構想されねばならない。性急な解決を求める前に必要なのは、近代住居空間の社会的な構成を読みとき、分析することだ。歴史社会学は、そのための距離と自由を確保する方法に他ならない。(P262)

 歴史社会学という学問はどういう手法で何を読み解く学問か? それを<住宅>の適用した時に何がわかるのか? 正直、本書を読み終えた何がわかったと言えるだけの読解力も知識もない。それでも、建築学側からアプローチする<住宅>と、社会学側からアプローチする<住宅>では重なりつつも若干のずれが見える。

 <住宅>を物質的に捉えざるを得ない建築学の視線に対して、社会学では社会の中に<住宅>(時に住居、または居住)をおいてその総体を捉えようとする。本書の立場である歴史社会学では、さらにそれを歴史の中に置いて、政府・建築家・居住者それぞれの側からの住居(文化・経済・形態)の成り立ちを追っていく。<住宅>は人間にとって外界から身体と精神、家族を守る基盤であると同時に、国や国民を作っていく装置であり、仕組みでもある。  第1章で住居を社会学的にどう捉えるかについて言及した後に、第2章「啓蒙」、第3章「動員」、第4章「産業化」で、明治以降から概ね戦前にかけて、住宅がいかに捉えられ、作られていったかを豊富な歴史資料によって確認する。

 終章「日常生活批判に向けて」では改めて日本社会が住宅をどう捉えているか、いかに捉えるべきかの持論が述べられる。そこでは「複製技術」「交通・コミュニケーション」「時間・空間の商品化」の視点から住宅を見通す。このうち最も要となるのは「交通・コミュニケーション」だと言う。住居は社会学の立場からは物的な空間であると同時に、あくまでも身振りや制度が作りだす空間である。そのことに異議はない。小難しい資料や論が続くが、建築の側から見るとそれもまた面白い。

●幼児にとってみれば、住宅とはルールでがんじがらめの空間である。社会の側から見れば、さまざまな行動の規範が埋めこまれた場所である。しつけは、幼児という他者を文字通り「飼いならす」実践のことである。・・・飼いならされる側はさまざまな抵抗を示すことであろう。場所によってはそれが住居の解体をもたらすかもしれない。しかしたいていの場合、ルールとしての住居のなかで時を過ごすことを通じて、人々は身体に内在する快―不快の感覚を自ら調整するようになる。(P21)
●住居をめぐって交渉するのは・・・国家と家族だけではない。階層と階層、資本と消費者、男性と女性といったさまざまな集団や身体の関係が、ときには闘争や妥協、あるいは統制や支配といったかたちをとりながら展開する。住居とは、そうした目に見えない闘争の現場でもある。(P42)
●「啓蒙」「動員」「産業化」は住宅の開発に向かう社会的な力である。それらは・・・互いに重複し、相互浸透しながら展開している。住宅は、家庭という聖化された場所を基盤とするデモクラシー思想の浸透、労働力の再生産を有力な根拠とする公的な介入と計画化、ディスプレイやデザインといった消費に関わる技術の開発、という三つどもえの社会変動のなかで形成されてきた。(P52)
●近代家族には、形態的・機能的・心理的な特徴だけでなく、技術的な特徴―貨幣を媒介とした生活の把握と計画化―がある。長期にわたる家庭の再帰的運営とコスト感覚を練磨するうえで、重要な戦略目標となるのは養育費と住居費である。そう考えると、1950年代以降、出生率が急激に低下し、持ち家取得に関わる設備投資が活発に行われたのは偶然の符号ではない。住宅と近代家族は、たがいにもう一方を前提とする関係にある。(P250)
●住居が固定された物質ではなく社会的な過程であるならば、その再編成もまた、社会的なものとして構想されねばならない。性急な解決を求める前に必要なのは、近代住居空間の社会的な構成を読みとき、分析することだ。歴史社会学は、そのための距離と自由を確保する方法に他ならない。(P262)