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東北発の震災論

 「限界集落の真実」で一躍注目を浴びた山下祐介氏だが、東日本大震災の直後、2011年4月から弘前大学を出て、首都大学東京に異動した。しかしけっして東北を捨てたわけではない。以前のようにどっぷり浸かることは難しくなったかもしれないが、これまでの関係を足懸かりに独自のルートで何度も東北を訪ね、また社会学調査に参加し、被災者、避難者、支援者、その他関係者に取材し、調査を行ってきている。震災以降、開沼博や古市憲寿など20代の社会学者が多く現われ活躍をしている。山下祐介氏は彼らよりも一世代高い40代前半の年代だが、それ故にこそ、より広い視野と経験から日本社会を見つめている。

 山下祐介氏が本書で展開するのは、日本の社会システム論だ。日本社会は90年代以降、巨大で広域なシステムに覆われ、我々はそれを当たり前のものとして生きている。東日本大震災、中でも原発事故は、この広域システムが一部崩壊する経験であり、かつ誰もが信頼を寄せていたそのシステムの中心には、システム全体を見通す主体はおらず、たまたま中心に位置する者もその一部の専門、一部の分野のみを見て判断をしているという実態を明らかにした。

 しかも周辺からは中心がある程度見えるにもかかわらず、中心からは周辺が見えていないかのようだ。多分、遠すぎるのだろう。だが、周辺にはシステムを動かす術がない。こうして広域システムの持つ「中心/周辺」の問題、さらに主体性がどこにもないという問題が明らかになる。

 ところが機能不全に陥ったシステムは新しいシステムに置き換えられようとしているかと言えば、どうやら元のシステムに戻ろうとしているのだ。しかも事故や震災などなかったかのように、忘れることでまた元のシステムを動かそうとしている、かのように見える。

 こうした「システム/主体」論を形而上的な社会学的問題として解こうとしているのではない。これらの考察が導かれるのは最終章「システム、くに、ひと」に至ってだ。第1章「広域システム災害」で問題意識を掲げた後は、次章から震災と事故がもたらした現実を冷静に検証していく。第2章「平成三陸大津波」では津波がもたらした被害を、「物理的被害」「心理的被害」「社会的被害」に分け、中でも「社会的被害」について、(1)家と親族の破壊、(2)コミュニティの崩壊、(3)地域産業・経済の損失、(4)地方自治体のダメージ、の4つに分けて分析する。こうすることで、逆にそれぞれの回復があって初めて社会全体が回復することが理解できる。かつこれらがいずれも大きなシステムに寄りかかって存在していたことも。

 第3章「東北という場」では、「東北」という名称からして他者が指して付けられた呼称であることを指摘し、その周辺性を説く。それは古代に留まらず、現代にも続き、かつ広域システムに包摂される中でさらに主体性を失っていく。

 第4章「原発避難」は、原発事故による被害の実態。しかもまだ確定せず、当分確定しないまま、広がり、継続し続けていくことを指摘するとともに、避難指示がそもそも中央でしか対応できなかったことを指摘する。事故収束への対応も中央でしかできない性格のものであり、しかもそれが従前のシステムを稼働することで対応されている実態を示す。システムはさらに強化されようとしているし、それしか解決の方法が見出せないのが現実だ。同時に、社会的に分断される避難者たちの実態も描いていく。

 第5章「復興と支援」では、原発避難地の大熊町や富岡町での「仮の町」を巡る取材、広域合併した石巻市での高台移転を巡る行政と被災者との相克を取材し、真の復興とは何かを問う。被災地の主体性は復興を急ぐ中央の意向の前で、うまく機能していない。そしてボランティア活動でさえ広域システムの一つとして機能している実態。

 こうして広範囲に目を向けて分析する丁寧な取材と調査の末に、最初の問いに戻る。果たして我々はこの毀損した広域システムを前にいかに生きていけばいいのか。その答えは明確には示されていない。西欧のキリスト教を母体とした個人を主体とした社会ではなく、日本では「関係」「共同体」を主体とした社会づくりがあるのではないか。それはまだ山下氏の仮説に過ぎないし、あとがきにもそのように書かれている。

 震災直後、東日本大震災は時代を変える大きなエポックになる、という言葉をよく聞いたし、私自身もそう話したことがある。だが、安倍内閣の登場は逆に時代を大きく元の場所、震災も原発もなかった時代に戻そうとしているようだ。しかしきっと違う。本書の中で「この震災を『第二の戦後』と評した人もいた。しかしむしろこれは、太平洋戦争の開戦直前の日本により近いようだ。」(P219)という一節がある。筆者は、このまま従前のシステムが元に戻ろうとする動きを見放していると、時代は太平洋戦争に突入してしまうと警告しているようだ。政治的に動けということではないが、新しい仕組みは自分たちで主体性を持って作らねばならない。被災地を見続けることがその一つの力となる。

●日本社会はいまや、広域にわたって形成された一つの巨大システムをなしている。今回の震災では、この「広域システム」の存続を脅かす事態が生じた。/広域システムには「中心と周辺」がある。震災は、東北という日本の周辺に生じ、そして被災地という新しい周辺が東北のうちに広く現われて、多くの人が周辺の中の周辺へと押し込められていった。/周辺の中の周辺が今後とも存続し続けるためには、どんなに周辺化してもなお、その「主体性」を確保する必要がある。しかしこの震災では、主体性の危機は被災地=周辺だけの問題ではなかった。周辺どころか、中心にすら主体が見えない状態が生まれていた。・・・あらゆるものが周辺化する広域システムの中で、当のシステムだけがその存続を果たしていく。そしてその存続も、何かが主体的に目指されているのではなく、ただ結果としてそうなっているだけであって、ここでは人間は客体として存在するのみだ。(P10)
原発事故をめぐる情報の流れを見ても、あるいは避難誘導をめぐる責任のあり方においても、それ以前の<中心―周辺>の枠組みは、依然として生きつづけてきた。・・・システム崩壊後に観察されるのは、失敗したシステムのあり方を変えようとする力であるよりはむしろ、元の状態へと戻ろうとする強い回復力である。・・・ここで筆者は「脱原発すべきだ」といっているのではない。・・・脱原発の運動もまた大きなシステムに関わる過程の中にあり、システムの中心側で動いているものに他ならないからだ。・・・もし根源からこの問題を解決するならば、それは脱原発ではなく、脱システムでなければならない。(P163)
●支援者も、被支援者も、すでのシステムの中にある。この中にいる限りは、このシステムがもたらす問題は解けない。・・・システムの中にとどまりつづけながらも、ただ一つ可能性があるとすれば、それは、システム自身が、システムの抱える問題点に気づき、これをあきらめずにたえず疑問視し、これを解いていくことができる、そんな仕掛けができるかどうかだろう。・・・問う力、問題を設定していく力がまずは必要だ。そしてその問いを、さらにしつこく、しつこく追い回して、いったい何がどうなっているのか、主体的に解きつづけることが大切だ。(P246)
●システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人が人でなくなる。生きることは、真の生ではなくなる。復興も同様に、真の復興ではなくなる。/こうした状態がもつ問題性こそ、今回の震災を通じて問われねばならないものだ。だが誰がそれを問うのか。このシステムにどっぷりとつかりながら。(P270)
●どんな社会においても、その社会を認識し、社会を実践し、また変える主体が存在する。では、日本社会の中の主体性とは何か。・・・それはやはり小さな共同体の意志であり、身近で、無自覚で、当たり前の日常のつながりのようだ。日本社会の歴史を顧みれば、こうした小さな共同体が重なり合い、つながりあって全体が作り上げられており、また全体に変化が起きる時は必ず、どこかの共同体から始まるものであったということができる。(P273)