社会学と都市計画の違い

 先日読んだ「限界集落の真実」は面白かった。筆者の山下氏は青森県等で集落調査をすると同時に、集落の再生活性化について住民と一緒になって考えた。先進県視察に同行し、集落の人々の「うちの女の人たちなら、もっといい味出すな」という言葉がきっかけとなり、モニターツアーを実施する。だが、そこから本ツアーにはなかなか進めない。いろいろと理由はあるが、無理に押したり、代替案を提示したりはしない。

 筆者が住民の気付きと立ち上がりを促す手法として絶賛するのが「T型集落点検」だ。これは熊本大学の徳野貞雄教授が考案した手法で、集落の住民に最初は居住者、ついで家族とその所在地を地図に書き入れてもらう。すると最初は単身高齢者ばかりと思っていた集落に、意外に広い外部とのつながりがあることがわかり、彼らを引き込むことで、集落の再生活性化への道を探る糸口が見えてくる。そこから住民自らの主体的な活動を促していくものだ。

 そこには、何をすればいいのか、どうすればいいのかというアイデアや手法はない。それは集落の住民やその家族らが考えていく。だから途中で止まることもあるし、一気に成果が見えないことも多い。だが、家族のつながりが根っこにある活動は、金儲けを目的とした活動とは違って、簡単に消えることはない。それを掘り起こすのが「T型集落点検」だ。

 実はこの本を読み終わった後で、昨年、法政大学の稲葉先生に「公営・URにおける外国人居住問題」についてお話を伺った後の懇親会で、先生から聞いた言葉がよみがえってきた。要約すると「一緒に地域調査をしても、社会学の研究者は社会状況が発生する要因や関係等を明らかにすることが目的となるのに対して、都市計画の研究者は解決方法を提示することが目的となる」といった趣旨の言葉だ。

 「限界集落の真実」の中で山下氏は、「集落再生プロジェクトは、都市のコンサルタントや研究者により提供されたプログラムではなく、地域住民によって主体的に取り組まれる取組だ」といった趣旨のことを書いているが、これはそのまま都市計画コンサルタントや研究者に対する批判となっている。

 工学を専攻した専門家は得てして、研究は課題に対する解決を提示するものという思いがある。それに対して、社会学の研究者は、社会関係や成り立ちを明らかにすることが研究の目的となる。そしてその溝は相当に深い。

 意識の問題は別にして、真に住民の幸福につながるのはどちらだろう。真の集落再生を実現するのはどちらのアプローチだろうか。

 もちろん都市計画の専門家も住民主体による取組を最優先にするが、ひょっとして住民主体をアリバイにして、専門家の権威により提案を地域に押し付けていることはないだろうか。これは、東北地方大震災の被災地支援を行っている建築家や都市計画家に対してもぶつけてみたい疑問でもある。

 行政は概して課題解決の成果を早く欲しがるし、行政からの委託を受けて地域に入るコンサルタントとしては、成果を求めざるを得ない。また住民も専門家に依存しがちだ。研究者としても成果が見えない取組では研究成果にならない。

 それに対して、成果が出ない理由を社会構造等の社会要因に求めることが研究成果となる社会学者はその点、気楽かもしれない。そして目的が住民の幸福であれば、集落の再生は実は本当の目的ではないのかもしれない。

 「消滅した限界集落はない」と書く一方で、「挙家離村した集落はあるが」と当たり前のように続けるのは、そのことを示している。都市計画の専門家には大きく違和感を持つところだ。集落の消滅が問題ではなく、住民の幸福が問題だと言われれば確かにそのとおりなのだが。

 どちらのアプローチが正解ということではないのかもしれない。ただ都市計画家は、住民主体と言いつつ、実はアリバイとして使っていることはないか、という反省はいつも持っていてもいいのではないか。自分自身に振り返っても全く自信はないが、「限界集落の真実」を読んで、そんなことを思った。住民主体は難しい。