後藤新平

 越澤先生が「東京都市計画物語」や「東京の都市計画」を書かれていることは知っていたが、そもそも東京のことをよく知らない私が読んでも理解できないだろうと思い、未だに読んでいない。東日本大震災が発生し、震災復興が大きな課題になっている。今この時に、関東大震災にあたり帝都復興を主導した後藤新平の話を読むことは何かの参考になるかと思い、越澤先生の著作を初めて手にした(多分)。

 もう一つの動機は、西澤先生の台湾・満州等における植民地建築に関する本を2冊続けて読み、そこに後藤新平の姿が著されていたことだ。  後藤新平は岩手県水沢の下級武士の家に生まれ、福島県で設立されたばかりの医学校で教育を受け、医師として生活を始めた。そこから、後藤の実力を見込んだ官僚や軍医の推挙を受け、内務省に抜擢・採用され、衛生局長の地位にまで上り、その後、台湾総督民政長官、満鉄初代総裁と植民地の開発と経営に関わっていく。この新しい土地で医師として衛生行政に関わってきた経験が活かされる。

 上下水道や公園の整備など良好な住環境を整えることは、確かに衛生の観点からも重要な事業である。だが、後藤は台湾・満州で専門的見地から都市整備を進めただけではない。都市経営を行い、本土の政治家や官僚と渡り合う中で、政治的センスや人材育成・登用の術を学び、さらに内務大臣・東京市長等を歴任して、押しも押されぬ有力政治家に成長していった。

 筆者が本書のために書き下ろした第1章から4章までは、こうした後藤の前半生が描かれている。そして第5章以降はいよいよ都市計画、復興計画の策定と復興事業である。

 多分、「東京都市計画物語」などでは既に書かれていたのだろうが、政治的嫉妬の前に挫折した帝都復興計画は、しかし大半を東京市の事業に移すことで実現された。単なる大風呂敷ではなく、引くところは引きつつも実を取る後藤のしたたかさが如実に現れている。後藤は単なる政治家ではなく、偉大な実務家であったのだ。  現在進行しつつある震災復興も、まるで後藤が直面したような政治家同士の政争の道具と化している。しかも後藤新平はいない。今こそ後藤新平が望まれている。いや、どこかで現在の後藤新平が活躍していると信じたい。

 

●日本ではまだ有力政治家や世論の都市問題・都市計画に対する関心がきわめて薄かった大正時代に、有能な実務家・専門家の人材を結集して、自分がその先頭に立って法制度と政策形成を行っていた。都市問題の普及啓発を進め、都市計画をいつでも実行できる準備を済ませていた。この6年間の政策形成、人材蓄積、助走期間が、帝都復興を4ヶ月という短期間で計画策定し、6ヵ年余という短期間で復興事業を完成させるという、二つの偉業を成し遂げた原動力と背景であった。(P018)
●後藤は調査研究を重視し、ビジョンを打ち出し、人材を集め、リーダーシップを発揮して政策を実行するという日本の政治家としてはきわめて特異なパーソナリティを持っている。それが帝都復興の原動力となったが、後藤の都市計画、社会資本整備に対する熱意をつくった原点は、台湾総督府時代と・・・満鉄総裁時代にある。(P112)
●結局のところ、都市計画法草案から国庫補助の規定は全面削除された。この結果、道路は道路法、河川は河川法、と個々の土木事業として国庫補助をするしか方法がなくなった。都市計画、都市改造という都市のインフラ整備を総合的に推進し、それを国庫補助する途がふさがれた。・・・また、道路、河川、下水道という個々の土木施設しか考えないという傾向、視野の狭さを国の公共事業・社会資本整備にもたらすことになり、都市の将来像を見すえてトータルに計画し、社会資本整備を実施することが困難になった。(P176)
●枢密院や二大政党の長老政治家は、首都の復興という国家・国民の一大事を放り出して、政争を優先させた。後藤が主導する帝都復興計画を山本権兵衛内閣への政治的揺さぶりの機会として利用した。それは後藤には勝手なことをさせないという”政治的な嫉妬”であり、そのため復興事業の実行は財産権の侵害だと攻撃した。/このような執拗で激しい「政治的な嫉妬」を引き起こした原因は、後藤内閣誕生の阻止であったと筆者は考える。(P223)
●政友会の予算修正により、区画整理は地主組合を主体とし、国の事業執行は幹線道路に限定されることになった。・・・しかし、これでは都市改造の実現が不可能になりかねない。そこで、復興計画を推進してきた後藤たちは、区画整理の事業主体を東京市に切り替え、東京市の負担を増加することによって、この緊急事態を切り抜けることにした。・・・東京市長永田秀次郎は帝都復興を推進する立場をとり、東京市会もこの措置を支持したのである。(P244)