植民地建築紀行

 著者の西澤氏とは一度プライベートでお会いしたことがある。当時は植民地建築の研究を主にしていることも知らなかったが、それを知った以降もなかなか著者の本を手に取る気がしなかった。それはもちろん日本が植民地支配をしていた時代、支配のための建築物について、通常の建物と同じ感覚で見ることができないと感じたからだ。

 もう一つ、朝鮮総督府庁舎の保存・解体騒動の記憶もあった。韓国の人々の気持ちもわかる中、残したいという建築の専門家としての思いをどう始末していいかわからなかった。ところがこの本を読むと、そんな感情などつまらないものだということがわかり、すっきりした。いい建築は使用目的や歴史に関わらずいい建築物なのだ。そのことがよくわかる。

 朝鮮総督府庁舎も戦後、大統領府として利用され、五輪後は博物館として利用されてきたものを、朝鮮王朝の王宮であった景福宮復元のために解体するということで、解体論争になったのだそうだ。しかも建設当時には日本においても、王宮の露骨な破壊に対して批判的な意見が少なくなかった。今、朝鮮総督府庁舎の一部は独立記念館の庭に歴史の記憶を示す野外芸術作品として展示されているという。

 朝鮮、台湾、中国東北地方で日本人が作った植民地建築はどれもその時代を生きた建築家にとって丹精を込めた作品だった。そのために西洋に学びに行く建築家がおり、海外から伝わってくる情報に最大限のアンテナを張っている。彼らは植民地という新開地で自らの才能と努力の成果を建築物という形で花開かせたのだった。

 だから現地人にも「いい建物ですよ」と言ってもらえる。建築物は、見て、感じて、評価すればいい。その目的や経緯はあくまで付属的情報に過ぎない。そうでなければ独裁者の建築した建物は全て壊されねばならない。ピラミッドも王宮も宗教建築も。そう考えれば、植民地建築はその性格ゆえにこそ、保存され、歴史を伝えていく価値があると言える。

 本書は月刊誌に連載された紀行文を編集したものである。残念ながら紹介される建築物に全て写真が掲載されているわけではない。文章だけでは実際の姿がよくわからないものも少なくない。それを実際に見るためには現地に行かねばならない。それもいいが、著者の植民地建築に対する考え方をもう少しきちんと読んでみたい。そこでさっそく著者の「日本の植民地建築」を図書館で予約した。楽しみにしたい。

御真影が大会議室の演壇後方に保管されたのは、台湾総督の官職と役割に依拠している。・・・この大会議室は、台湾総督府の施政に関わる重要な会議が開かれた場であり、そこでは、台湾総督が天皇の代理者として会議を主宰し、決定を下す。天皇の写真である御真影は、日本に居る天皇の代わりであり、そのため、この大会議室に面した場所に保管された。(P31)
●「この駅は、立派でしょう。いい建物ですよ」と笑顔で語ってくれた。このことで、私は、植民地建築が、植民地支配から脱した時期であっても、その地で存在感を持っていることを思い知らされた。(P67)
●この近江町住宅・・・の竣工の1年後、1909年12月に工事概要を載せた『建築雑誌』は「満洲に於ける一名物または成績のよい事業の一つ」と評価した。それは、当時の日本国内では見ることのできなかった低層集合住宅が、日本国内から見れば「未開の地」であった中国東北地方の茫漠とした広野の中に忽然と出現したことへの驚嘆でもあった。(P197)
●中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。日本各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。・・・そのため、手本になった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(P251)
●植民地建築と向かい合うことは、日本人にとって日本の支配と向かい合うことである。・・・植民地建築を使い続けることは、支配を受けた人々にとって、支配を受けたという事実を後世に伝えながら、その歴史を乗りこえる糧である。植民地建築の過去と現在を歴史教育の題材として使うことができるなら、歴史認識をめぐる東アジア諸国の軋轢は解消されるであろう。そこに植民地建築の新たな存在意義が生まれ、未来が開けるはずである。(P269)