内子・大洲 - 伊予を巡る

6055 内子町は江戸末期から明治時代にかけて、木蝋の生産で賑わった山あいの町である。人口は2万人弱。果樹や椎茸など農業生産が主体で高齢化も進行している。昭和57年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、平成11年度から17年度にかけて街なみ環境整備事業により住宅等の修景整備や通路、ポケットパーク等の整備を行った。この結果、今では年間50万人もの人々が訪れる観光地となり、私が訪れた日も多くの観光客が町並を歩いていた。

 最北の町並駐車場でバスを降り、無電柱化・カラー舗装された通りを南に下っていく。まず右手に八日市・護国町並保存センターがある。白壁に格子、2階の丸い縁取りの虫籠窓、腰のなまこ壁が美しい。階段を上がった2階に街なみ環境整備事業の経緯や修景整備された住宅の従前・従後と建築主のコメントなどが展示されている。今では美しい内子の町並だが、多くの建物が修景されて現在の景観がつくられていることに驚いた。

6037 いくつかの民家は店先に地場産品等を並べ店舗になっている。2階を見上げると白壁に黒い縁取りの格子まで塗り込めた虫籠窓。その間に鬼が笑っているような鏝絵が飾られている。

 街なみ環境整備事業で整備した木橋を渡ると、右手にポケットパークがあり休憩所が整備されている。そのすぐ南の路地の先、瓦の乗った土塀の裏には内子中学校のグラウンドが広がっている。木造校舎も傾斜屋根で景観に配慮されている。

 重要文化財の上芳我邸は修理工事中で、裏手に大きく廻った先に木蝋資料館の入口がある。展示棟は新しい建物だが、蔵風の造りで展示も見やすい。ちなみにクイズ全問正解で絵葉書をもらった。黒漆喰の上に「勢」に似た字が躍る白壁格子の民家の隣が中芳我邸だが、有料なため入らなかった。

5963_2 しばらく行くと、鶴の文様の色鏝絵が妻面を飾る本芳我家が現れる。こちらも重要文化財。破風下のこの飾りを懸魚と言う。通りに面した平側の2階壁下には、鶴や亀が波や風に遊ぶ鏝絵が並べられ、2階のなまこ壁の平瓦は六角形のものが用いられている。また隣に並ぶ砂ずり壁の妻入りの蔵も見事。朝日をバックにした鶴鏝絵の懸魚が艶めかしい。

 その隣にあるのが大村家。同じく重要文化財でこの通りで一番古い建物ということだが、まだ整備前で言われなければ見落としてしまいかねない。町役場からは「上芳我邸の修理工事が終わった後、来年度から修景整備に入る予定です。」という話を聞いた。街なみ環境整備事業による修景整備は、補助率2/3で補助限度額が500万円。重要伝統的建造物群保存地区文化庁補助の場合は、補助率80%で限度額も無制限になるという。重伝建補助は文化庁予算が少なくそれほど多くは採択されないと聞いたが、それでも毎年2~3棟は整備をしてきているとのこと。また、地区内で建物の整備等を行うためには町の許可が必要で、許可証を掲示して工事をされている住宅も見られた。

6023 さらに足を進める。各住宅を見ると、ベージュ色の壁のもの、防火壁が飛び出たもの、側壁の下部が滑らかにカーブを描くもの、虫籠窓の間に文様の入ったもの、窓下に床几が広げられ商品が並べられている家などそれぞれ工夫を凝らした意匠が取り入れられ、その多様さに驚く。寺社に至る路地は石畳舗装がされていた。これも街なみ環境整備事業によるもの。通りは緩やかにカーブを描き、一部クランクする箇所もあって、整備されたアイストップの建物が目に快い。

 少し下ると東側に旭館(映画館)の看板があった。路地を入ると確かにそれらしい建物が朽ち果てて残っていた。大森和ろうそく店は定休日で残念ながら見ることはできなかった。角の小川医院は景観に配慮して建てられた新建築。伊予銀行内子支店も頭部の飾りが雰囲気を出している。

 八日市・護国通りの南端の交差点を東に行くと、文化交流ヴィラ「高橋邸」。これはアサヒビール株式会社元会長・故高橋吉隆氏の遺族から寄贈された民家で、広い敷地に幾棟もの木造家屋が並び、往時の繁栄を偲ばせる。 6061

 戻って交差点から西が六日市本通り。この通り沿いにも古い景観の建物がいくつも並んでいる。蕎麦の下芳我家の懸魚は真っ白い鶴の鏝絵。赤い目が通りを見下ろす。「商いと暮らし博物館」は内子町歴史民俗資料館で、薬商「佐野薬局」の商家を公開展示しているもの。薬棚が並ぶ正面のミセノマには2体の人形が往時の雰囲気さながらに並べられ雰囲気を醸しているが、館内にはそこかしこに人形が並べられ、それらが突然話し出すので少しびっくりする。主屋2階から町内の蔵の家並みを眺めて一時のんびりする。

 内子児童館は旧化育小学校として明治12年に建築され、現在まで利用され続けている洋風木造建築物。隣の内子町立図書館は昭和11年建築の旧内子警察署で、小振りだが上方へ伸びる窓頭頂部のアールが時代を感じさせる。

6083 通りを少しはずれた奥にあるのが、木造劇場の内子座。大正5年の建築で、昭和60年に修理が終わって再オープンした。現在も年間80日近くは劇場として利用されているそうで、歌舞伎の次回公演案内のポスターも掲示されていた。館内は2階席もある枡席で、舞台には回り舞台やせりあがり、花道などもあり、本格的な歌舞伎上演もできるようになっている。奈落も見学できるが、これらの設備は今回の改修整備で付け加えられたものらしい。 6103

 さてこのあと食事をしてからJR内子線を大洲へ向かう。  大洲は伊予の小京都と呼ばれ、肱川に面して落ち着いた町並が魅力。鵜飼いでも有名。あいにく大洲に着くと同時にすごい雨が降り出し、タクシーを使って「まちの駅 あさもや」に向かう。観光案内所でパンフレットを仕入れ、すぐ隣のおはなはん通りから歩き出す。昭和41年にNHK朝の連続テレビ小説樫山文枝が演じて驚異的な視聴率を記録した「おはなはん」の舞台、ロケ地として今もきれいに整備保存されている。通りの片側を流れる水路には花が飾られ、白壁の家並みともども清楚な雰囲気を醸している。そのうちの1軒は休憩所として公開展示されている。

 突き当たりの通りは観光マップには「明治の家並」と記載されているが、狭い路地に小振りで瀟洒な家並みが続く静かな通りである。石張舗装の道を往復して、臥龍山荘への坂道を上っていく。

 臥龍山荘は明治の貿易商・河内寅次郎が桂離宮などを参考に、贅の限りを尽くして建築した数寄屋造りの山荘で、臥龍院、知止庵、不老庵の3つの建物が建っている。3間からなる臥龍院は主屋で、柱の1本、1枚の欄間や障子、金具や天井に至るまで、細やかで見事な装飾と工夫が施されている。また知止庵は茶室、不老庵は崖上の舞台造りで、穹窿状にカーブを描いた竹網代張りの天井は見事。また生きた槇の木を使った「捨て柱」が今も軒下に残っているのも面白い。

6149 雨がひどく早々に臥龍山荘を退散。無味乾燥な堤防内の肱川沿いを強い雨に打たれながら「おおず赤煉瓦館」まで歩く。明治34年に建築された元大洲商業銀行で、別棟の金庫棟などがある。裏手に昭和30年代を再現したと思われるポコペン横丁や思ひ出倉庫などがあるが、雨の中、閑散として閉じられていた。

 川に張り出し建築された大洲城は、平成16年に再建された新しいものだが、川に映って印象的な景観を見せている。帰りの車中で話した運転手さんによれば、大洲の町もこの古い町並から駅前周辺へ、さらに最近は国道沿いへと町の中心が移り、まちの様相が大きく変化しているという。駅に着いたら一転きれいに晴れ上がった。もう一度しっかり時間を取って出直せということだろうか。今度は宇和島にも足を伸ばしたい。いつになることか。

【参考】 マイフォト「内子・大洲 - 伊予を巡る」もごらんください。