都市の記憶を失う前に

 文化庁で長く歴史的建築物の保存と修復に携わってきた後藤治氏による、歴史的建築物保存に係る課題と解決のための提言の書である。保存のための経済的な制度等について研究するプロジェクトを立ち上げ、提言を行っているオフィスビル総合研究所が共著として名を連ねているが、ほとんどは後藤氏の執筆になる。ちなみにプロジェクトメンバーが執筆したコラムが5編挟まれている。

 歴史的建築物が破壊されていく要因として、(1)国土の高度・効率的利用、(2)防災・安全対策、(3)文化財保護法の失敗の3点を取り上げ、各要因がどう作用し歴史的建築物が壊されてきたか、またそれを防ぐための方策について検討する。

 さらに、第4章「今後の課題—どうすればよいのか?」では、それぞれの課題について、具体的な対策を提言している。

 (1)国土の高度・効率的利用は、日本の都市部の歴史的建築物を破壊していく最大の要因である。これに対して5%ルールを提案しているが、正直、すぐに実現可能な対策とは思えない。地方部でも歴史的建築物保存による経済的価値が建替・更新の価値を上回ることができない現実の前では、優遇支援制度というより国民の意識変革が必要だ。

 それよりも、(2)防災・安全対策の章が面白い。建築物の安全性を担保する建築基準法の抱える問題点を指摘するのだが、単に歴史的建築物を保存する上での問題点というより、日本人の法令依存・行政依存の状況を指摘していて興味深い。専門家の職能やコンプライアンスにまで踏み込んでいるが、まさに的確である。具体的には、不特定多数が集まる施設として歴史的建築物に対してもいたずらに法遵守を求めるのではなく、利用制限や管理方法などで対応することで安全性を確保する方法があるのではないか、と柔軟な対応を求めている。

 また、(3)文化財保護法の失敗では、そもそも日本の文化財保護法が、古寺社の保存から始まったことによる影響から未だに脱却できずにいる状況が暴露される。動産と不動産が混同され、建物を本来の目的で利用することができない仕組みに問題を投げかける。最後には、行政組織の問題や公共が所有する歴史的建築物の破壊の危機について指摘している。あまり知られていない話なだけに非常に興味深い。

 歴史的建築物や町並みを見ることは大好きだ。それが保存の危機に瀕している。それが国民の意識のレベルであればまだあきらめられるが、人為的な法制度が保存を困難にし、国民の意識すら方向付けていると思うと、何とかならないかと思う。歴史的建築物保存のプロが執筆する法制度の話題は非常に興味深く面白い。

●建物の構造や材料の性能だけに基づかない、利用方法への評価や管理方法への評価を含めた、柔軟な対応が可能な性能評価方法の確立が、歴史的建築物の保存のためには必要であると筆者は考える。(P82)
●日本では、建物の安全については、法令によって十分な措置を確保すべきと考える傾向が強い。例えば、建築基準法に適合していた建物が、大地震で・・・ひどく壊れてしまったとしたらどうだろう。一般の人々やマスコミの意見は、法令の不備を批判するか、建てることを認可した行政が責任を取るべしという声が大勢を占めるに違いない。そして、行政は責任を取らないかわりに、必要最小限という法が定める限度を高める形で規制を強化するのだ。このため日本では、法令が求める水準が勢い高くなったり、手続きが複雑化したりする傾向が強い。その弊害として、法令の最低限度とは別に存在するはずであった自己責任による安全の確保という意識が失われてしまっているようにすら思える。(P100)
●自己責任による安全を求める欧米諸国では、法令の求める水準は、それほど高くない。このため、法令を遵守することは比較的に容易である。・・・つまり、欧米諸国におけるコンプライアンスは、単に法令を遵守することにはそれほど意味はなく、法令遵守は当たり前で、法令以上にどのような備えをやっているのかが重要な意味をもっているのである。・・・このような状況だから、コンプライアンスという考え方を、法令の求める水準の高い日本に持ち込むこと自体に無理があるのだ。建物の安全については、日本では、法令を満たすことに相当の努力が必要で、それ以上のことをするゆとりはないといったところが実情だろう。(P106)
●ドイツの文化財保護は、・・・歴史的建築物は最も適切な目的で利用し続けなければならないことが、精神的な規定として記されている。つまり、建物を利用しつづけることが、「活用」というよりもむしろ「保存」そのものにあたるという考え方である。これならば、営利法人が特別な公開を行わなくても、収益をあげながら資産として歴史的建築物を使うことも、公共性のある行為として十分に法的に認められることになる。(P142)
●将来的には、文化財保護法の建造物や土地(公園、庭園等)といった不動産を定めるものや地区を定めるもの(重伝建地区、重要文化的景観)については、景観法の中で明確に位置付けていくべきではないかと考える。また、景観と文化財というふたつの施策は、少なくとも市民の窓口となる市町村においては、行政窓口をひとつ、都市計画を担当する部局にまとめるべきだと考える。(P174)