景観形成と地域コミュニティ

 まちなみ景観に関する建築・工学系からの考察は数多くあるが、社会学からのアプローチは観光化や地域活性化とからめて考察されることが多く、直接、景観形成そのものを考察することは少ない。本書は、筆者の一人、鳥越教授とその門下の二人の環境社会学者による、生活環境主義というアプローチからの、景観形成と地域の継続・活性化のあり方についての論考をまとめたものである。

 冒頭、景観法に対する評価と疑義が述べられている。「従来、住民主役で進められてきた地方自治体の景観政策を骨抜きにするものではないか」という指摘は、私も景観法制定寺に感じたことであり、大いに同感する。加えて、最近のどこでも同じような多自然工法の河川改修に違和感を訴えるのも、まさに同感の至り。筆者たちの主張はあとがきの一文に十全に現れている。

●本書で指摘したことは単純なことである。すなわち、生活と景観とを絶対に切り離してはいけない、ということである。・・・それぞれの地域で人びとは生きつづけており、その生きている総体の形が景観である(P303)

 このことを主張するために取り上げる現地は、竹富島であり、阿蘇山の草原であり、白保のサンゴ礁恩納村の海面管理であり、宮崎の山村・諸塚村(神楽と山に生きる生活)であり、中国の白洋淀と霞ヶ浦の潮来とイギリスの湖水地方の観光の取組みである。

 阿蘇山の草原を守るNPO等の活動と放牧や野焼きでは生活できない地域住民の相克は、生活と景観保全の矛盾を見事に現しており、興味深い。また、景観を生かした有力な地域産業である観光について、近代化の進展と景観資本の発見との関係を分析する第6章の考察も面白い。

 ただし、この考察が、住民生活と景観形成が両立し得る明らかな処方箋を明示しているわけではない。もとよりそれは難しいことだが、「生活と景観を切り離してはいけない」という主張は絶対的に正しいと私も思うし、その上で景観政策や景観形成活動に関わっていければと考える。

地方自治体の基本的な姿勢は、景観はあくまでまちづくりの一環であるという発想にある。まちづくりであるから当然のことながら、主役は住民である。ところが、罰則規定を付置したこの法律(景観法)は、・・・住民が意見を挟むことができる配慮をしてはいるものの、住民は主役の座から降ろされている。(P44)
●目に映る地表の相貌としての景観は、目に見えない仕掛けに支えられて人びとの目の前に現れる(P170)
●さまざまな事情があって農山村で暮らそうと決めた人たちは、自然の、循環する時間のなかで生きることを受け入れ、決意する人でもある。・・・彼らは、無事に楽しく生きることが目的だという。・・・重要なのは、・・・それが、無知やひがみや強がりではなく、自分がここで暮らすことの意味を考え抜いた結果として生まれてきた思想だということである。・・・それは、直線的な時間のなかでみると「努力しない」「上昇志向をもたない」人たちにみえるかもしれない。しかし、先ほど述べた阿蘇の農家は、そのことを「負ける勇気」と表現する。いま農業をつづけていくためには、都市と同じ土俵で行動するのではなく、負ける勇気が必要だというのである。(P251)
●景観論にとって、観光産業の位置づけはむずかしい。観光はしばしば景観を俗化させるし、さらには心ない観光客によって地元の人の心が痛めつけられることもある。しかしながら、・・・観光は当該地域を活性化させる力をもっており、さまざまな産業のなかでも景観を大切に考える産業である。生活から乖離していかないことを”地元が”心がければ、観光から発想された通俗的な景観も楽しめるのではないだろうか。(P300)