景観を発見する

 建築雑誌は昨年から二つの特集を設定しているのだそうだ。そういえばそうだったっけ。2009年1月号の第一特集は「新景観」。工場やダム等の土木構造物、団地など、機能第一で建設されてきた構造物に「景観」を感じ取り、ネットでの情報交換や写真集の発行、見学会の開催等の活動が最近活発に繰り広げられている。こうした活動を積極的に実施し、また評価している人たちとの対談や寄稿が集められており、何がいいのか、何故いいのか、といったことを描き出そうとしている。もっともわずかの誌面ゆえ「ほんのさわり」といった印象は拭いきれないが、彼らの意識や感覚が垣間見えて面白い。

 そもそも私も、常滑のやきもの散歩道の景観保全活動に関わり「電柱やアスファルトこそがいい」と感じたり、まち歩きをしていても洗濯物が翻るさまや植木等の表出物など生活感の感じられる景観に強く引きつけられることが多い。「住宅都市整理公団」や「団地百景」はお気に入りサイトの一つだ。

 今号の特集の中でも、映画監督の庵野秀明氏が「電柱や電線の効果」を唱えていて、同じ感覚を持っている人がいると嬉しい思いがした。  武蔵野美術大学の佐藤淳一教授の「ドボク・エンタテイメント・インヴェンション」の中の「むしろ世の中の方が、マニアを必要としはじめたようなのである。」(P020)というフレーズにドキッとした。確かにそうかもしれない。続いて「人間は、自分が好きなものが他人も好きであることが好き、な動物なのだと思う。」と書かれている。ドボク・エンタテイメント(佐藤氏は新景観を愛でる活動をこう呼ぶ)がネット上のつながりの中で隆盛したことを考えると確かにそうなのかもしれない。すなわち、人間関係の「希薄」や「疎外」が背景にあっての現象であると。

 しかしそれだけではない。それは背景であり、そこからではなぜ「新景観」が人をつなぐ媒体として脚光を浴びているのか、を考えなくてはいけない。その答えを私は持ち合わせていないけれど、「与えられる」景観から「発見する」景観へ、と考えると一つのヒントにならないだろうか。

 今までの景観も、デザインとコンセプトを理解し同調する自分の「発見」が景観に関心を寄せる根底になかったか。景観は「発見する喜びを喚起する」と考えると、「見る」という人間感覚と密接に結びついた心理作用を喚起する現象と捉えることができる。「景観」はまさに「見える」ことにその本質がある。景観が「発見」される時、そこにはいつも「新景観」が現れていると言えるかもしれない。

●日本の町並みが美しければ、確かに電柱は邪魔かもしれませんが。無秩序な街を無秩序でもって排している方がまだいいと思います。(P008)
●ドボク・エンタテイメントでは、そんな見立てを使って、対象と人間の間に、意識を交流させるための橋を架けるようなことをしているのではないだろうか。(P021)