集合住宅と日本人

 「あとがき」によれば、当初、出版社より「日本人論」というテーマを与えられ、筆者の専門に引き寄せ、集合住宅における「共同性」を主題に書き下ろしたという。それゆえか、司馬遼太郎山本七平丸山真男らを引用し、「日本教」に言及する部分や、政治学者として「参加」と「熟議」「包摂」といった専門用語を披露する部分など、やや難解な記述もないではないが、基本的にコーポラティブ住宅ゲーテッド・コミュニティなど住宅・建築分野の専門家には分かりやすい(専門外の人にとっては却って分かりにくいかもしれないが)事例をベースに論が展開されるので、総体的は理解しやすいし、納得もできる。そもそもこの本を知ったのは、日経アーキテクチャーに取り上げられていたからで、その点からしても建築の専門家がまずは読むべき本かもしれない。  とは言っても、建築専門家にやさしい本ではない。特にコミュニティを大事にする建築工学者を罵倒することが目的のように、辛辣なコメントがこれでもかこれでもかと綴られている。コーポラティブ住宅はコミュニティを育てることができれば全てうまくいく、と考えるコミュニティ信奉者を批判するのみでなく、五十嵐太郎の「過防備都市」を批判するのは、犯罪不安が共同性発動の契機となりうると主張するがための、批判のための批判のように感じる。  都市社会においてコミュニティ以上に重要なのがガバナンスであり、コーポラティブ住宅においてこそ、両者の差異が垣間見える。両者を冷静に分けて、居住者により構成される小さな社会を構築し、制度設計することが必要である。共同物の管理という局面において、全員参加のガバナンスを誘導することが、日本における新たな「共同性」の創造につながる、という主張は十分理解できる。実にそのとおりだと思う。コーポラティブ住宅を作ろうという「安住の会」の一員として、内部で主張してきた事柄でもある。  しかし、なかなか理解されないことも事実。延藤先生はそれゆえ、敢えて延藤教の教祖「聖人」になられていると思っている。心に訴えかける言説も重要なのである。  実は、分譲マンションの管理組合だけでなく、戸建て住宅地にも管理組合は存在する。そもそもわが家がそうであるし、町内会費を徴収している地縁組織は多い。会費を負担する住民にも新たな「共同性」の目はあるというべきだろう。結局、管理組合に新たな「共同性」につながる可能性がある、というだけで、具体的な方策が示されていないのではないか。管理組合にも悪しきコミュニティが蔓延している。そこから如何に脱却するか。日本が、日本人自体が変わらなければいけないのではないか。竹川氏のような人が出てくる、ということ自体が、日本人が変わりつつある証拠かもしれないが。
●利己主義とは、集団が存立してこそ、個人の自由や権利が守られるという単純な事実に目を覆ってしまい、ひたすら自らの利益を追求することであり、それが「共同性」を解体させていく。・・・すなわち、「制限」を前提とした「共同性」を構築しない限り、「道徳」など生まれるべくもない。(P29) ●”ガバナンス”を体現する・・・「建設組合=管理組合」の組織とは別に、会員相互の親睦、つまりは”コミュニティ”を目的とした「自治会」を組織したことも特徴である。つまり、私が示してきた”ガバナンス”という政治的共同性と、”コミュニティ”という相互交流を別ものとした考え方に通じている。(ノナ由木坂を事例にP104) ●政治的な「共同性」を備え、機能する住宅群こそを「都市」という(P160) ●「コミュニティ=全員合意」というぬるま湯に溺れ、それが「正しい」と思うことからは、新たな発想や知恵、そして他者を排除する罪悪感や「責任」は生じえない。その「正しさ」に絶えず抗うことが、他者を包摂していく回路となるのに違いあるまい。(P222)