錯乱のニューヨーク

 70年代末、アムステルダム生まれの建築家・レム・コールハースは一介の建築物も設計していない中で、メトロポリスと銘打った建築事務所OMAを開設し、この書を世に問う。マンハッタンは如何にしてメトロポリスとなったのか。マンハッタンをマンハッタンたらしめた原理は何か。「マンハッタン島に最初に住んでいた種族とは?」から始まる前史では、いくつかの先住民とのやり取りの後、1807年にシメオン・デウィットら3名で組織された委員会が、マンハッタンの地表に「究極的かつ決定的」な提案を行う。南北に走る12本のアヴェニューと東西に走る155本のストリート。こうして区切られた2028個のブロックは、その後のマンハッタンの開発と建築を決定的にしてしまう。そして1853年に開かれた第1回ニューヨーク世界博覧会に展示された針と球はその後のマンハッタンの建築的ボキャブラリーに根源的な役割を果たす。  第1部で描かれるコニーアイランドの狂想曲は無限の欲望と空想で形作られていくマンハッタンの運動原理の源を明らかにする。コニーアイランドは火災でその全てを焼失するが、そこで描かれた夢と欲望は、空前の好況の中でマンハッタンに何本もの摩天楼を生み出していく。そして1916年に定められたゾーニング法はマンハッタンに新たな原理を持ち込む。「ユートピアの二重の生活-摩天楼」と題する第2部は、フェリスのレンダリングやウォルドーフのアストリア・ホテルの物語を描きながら大恐慌の前後における摩天楼を巡る人々の狂奔の様を語る。1931年に開催された「現代の祝祭 炎と銀による幻想世界」と題する舞踏会はいかにも奇妙だ。マンハッタンで活躍する希代の建築家がそれぞれが設計した建物に似せた衣装「摩天楼ドレス」を着て壇上に並ぶ。P219の写真はその異様さを余すところなく伝える。  第3部はロックフェラー・センターを巡る歴史とデザインの物語。そして第4部にはダリとル・コルビュジエが登場する。ここまで、難解にして異様な歴史に戸惑っていたが、この第4部の書きぶりは非常に分かりやすい。ル・コルビュジエに代表される現代建築の理論はマンハッタンにおいて如何に消化され、そして呑み込まれてしまったか。マンハッタンは現代建築の理論さえ葬り出し、自らの運動理論で駆逐する。以降はその後のマンハッタン考である。補遺でコールハース自身のマンハッタンデザインを提案する。この提案がマンハッタンの物語と理論を如何に乗り越え、次代の理論を提案しているのか、よくわからないが、レム・コールハース設計の建築物が魅力的なことは確かだ。それは多分こうしたその地の文脈を読む中で生まれてくるものなのだろう。レム・コールハースはこの書で建築界をあっと言わせ、今や押しも押されぬ現代の大人気建築家になった。
●マンハッタン(は)・・・その実験の中で都市全体は、人工的な体験の生産工場と化し、現実と自然はともに存在をやめてしまったのである。(P010) ●針と球はマンハッタンの形態的ヴォキャブラリーの両極端を構成し、その建築的選択肢の両外縁を形作っている。・・・個々の独立したマンハッタニズムの歴史は、・・・結局のところはこのふたつの形態が演ずる弁証法の歴史である。(P041) ●容れものと内容の間の故意の断絶の中に、ニューヨークの建設者たちは・・・建築的なロボトミーを実行する。・・・かくして、聳え立つモノリスとしての建物は、外部の世界に対して、常に内部でせわしなく行われている変化の苦しみを覆い隠してしまう。(P168) ●「今や失われてなくなった」数々の段階の建物を–単一の場所、単一の時間点に−すべて同時的に存在させるものなのである。初期の建物を保存するために破壊することは必要な行為なのである。マンハッタンの過密の文化では、破壊は保存の別名である。(P257) ●ル・コルビュジエは、摩天楼の衣をまず剥ぎ取り孤立させてから、最後に高架道路網によって摩天楼同士を結び合せ、・・・過密の問題を解決してみせるのだが、ところが同時にこれによって過密の文化の息の根をも止めてしまう。(P423) ●ル・コルビュジエは結局マンハッタンを呑み込むことはなかった。マンハッタニズムは、喉につかえながらもとうとうル・コルビュジエを呑み込んで消化してしまったのだ。(P466)

2007年以前のログは(遊)OZAKI組「STOCK YARD」