都市計画家M氏の半生

 この地域の都市計画コンサルタントの嚆矢として活躍してきたM氏からその半生を聞く機会があった。M氏は私より10歳ほど上だが、知ったときには都市計画コンサルタントとして確固たる地位を築いていた。私などはほんのひよこで、HPなどを書き始めた最近になってようやく目をかけてもらえるようになったに過ぎない。  さてM氏。名古屋の大学在学中に黒川紀章事務所でバイトをした時から都市計画に興味を持ち、大学院修了後、京都の都市計画コンサルタントに就職。最初の仕事がニュータウン開発に関する調査だったと言う。その後、市町村総合計画や広域行政圏計画、市街地整備計画、市町村土地利用計画等を手掛けるとともに、その後、名古屋に移り、中心市街地整備計画や市町村合併に係る調査等さらに対象を広げ精力的な仕事を展開する。本格的な職員参加や住民参加によるまちづくりに先駆的に取組み、その関係の著作もある。もちろん住マスなどにも携わっているが、基本的には行政計画や都市計画の方が関心が強いようだ。  地元のコンサルタント業界では早々と中心的存在となり、彼の下で修行を重ね、独立したり大学教員となった人は数多い。M氏自身は今まで博士号を取得することなく、実務家としての仕事に没頭してきた。  自ら創設した早期退職制度を活用し55歳で退職。その後は地元岐阜県につくられたシンクタンクに理事、事務局長として関わり、独創的かつ精力的な活動を続けている。1時間余りにわたってさまざまな話を聞かせていただいたが、「都市計画コンサルタントとしての活動を振り返り、もっとも良かったと思うことは?」と聞かれ、多くの人に出会えたこと、と答えられたことが最も印象に残った。  計画技術的には、従来の金無心型の開発指導要綱を整備水準型に変更したことや集落と田園地域を一体的に開発整備する場合の負担割合や整備水準の設定、また地下街滞留人員調査のために挟み撃ちカウント手法を採用した話などが興味深かった。また、ぎふまちづくりセンターの現況と将来構想の話も。  M氏はその存在感の割にはマスコミへの露出がけっして多いわけではないが、この地域の変化に果たしてきた役割は非常に大きなものがあった。最近は毛の生えた心臓の動きがなかなか思うに任せないようだが、ますますいつまでも元気でいてほしい。もっともいまだに知力も行動力も私を凌駕しているけれども。