(住宅)事業評価に係る研究者の目線・事業者の目線

 大学研究者や行政担当者等が集まった学会組織で、地域でこれまで行われてきた様々な住宅事業について評価・分析するような冊子を作ろうということになった。基本的には学生の研究活動の一環として、卒論・修論のテーマとして取り上げることで、効率的に評価・分析し、論文を集めていこうという構想だったが、いくつか担当が決まらない事業があった。
 そこである大学研究者が「事業の担当者に依頼したらどうか」と言った。その事業組織の方も同席していたが、自分がその担当ではないことから安請け合いもできずに、また大学研究者の手前、あからさまに拒否もできず、困っていた。その事業はもう20年近くも前に完了していたことから、「当時の担当者はいないだろうか」という話も出たが、計画策定時の担当者が誰かも定かではなく、もちろんとっくの昔に退社している。「では、事業完了時の担当者はどうだろう?」という話になったので私から一言、発言させてもらった。
 「事業完了時の担当者は、事業を完了するというタスクを見事に達成したという点では、高く評価をするが、そうした実務担当者に事業の計画と完了時・完了後の比較評価などを依頼するのは難しいのではないでしょうか」。
 もちろん、その担当者が喜んでそうした作業をしたいというのであれば構わないが、一般的に考えて、事業完了時には計画時には想定しなかった状況が多くあり、多くの関係者と難しい調整を重ね、その時点でできる最善な方法で事業完了に持ち込んだはずで、その担当者に事業の評価を依頼するというのはあまりに酷ではないか。
 研究者が考える住宅事業の評価は、計画と現実のズレを明確にして、その要因を探り、改善方策を検討したり、同種の事業に向けての知見を整理するといった感じだろうか。一方、事業実務者は計画時、事業実施時、完了時で変化する住宅需要や周辺事情、協力業者との関係、資金調達や採算性、社内人事などの様々な要素を考慮しつつ、与えられた期間内で最善の努力を重ねていく。計画と事業完了時でズレがあったとしても、そこには様々な理由があるし、様々な検討と選択の結果なのだと思う。もちろん事業者側からすれば、あの判断は間違っていたかもといった反省もあるだろうが、研究者による様々な研究や評価を苦笑いして聞いているしかないし、ましてや「おまえがやれ」と言われても、なかなか困難な仕事になるだろうと想像する。
 しかし一方で、事業実施のそれぞれの局面でどういう課題があり、どういう判断をしてきたか。それが積み重なった末の事業完了なので、それらをすべて明らかにできれば、あるいは面白いかもしれない。そのためには意思決定に関わらない第三者的な取材者が常に事業者の横で記録をしていく必要があるだろうから、まあ無理かな。
 いずれにせよ、今回、たまたま異業種の人たちが参加する会議に出席して、それぞれの事業評価の視点の違いに今更ながら気付かされた。事業者は事業者として、研究者は研究者として、同じ事業であっても違う目線で評価している。入居後50年が経過した高蔵寺ニュータウンに住んでいると、研究者目線の話を聞くことが多いが、事業者目線で評価することも重要な気がする。これは住宅事業(住宅建設事業や再開発事業、住宅地整備事業等)の話だが、ひょっとしてこれは住宅に限らず、様々な事業についても言えることかもしれない。

萩城城下町を歩く

 津和野と言えば萩。山陰旅行の最後は、萩の城下町を歩いてきた。
 中央公園駐車場にクルマを停めて、まず向かったのは「青木周弼旧宅」。ちなみに旧城下町一帯が国指定史跡「萩城城下町」に指定されているが、青木家旧宅が単独で指定されているわけではない。しかし1859(安政6)年頃に建築されたようで、当時の姿を残している。ブラタモリ那須を特集した際に、青木周蔵那須別邸も紹介されたような記憶があるが、周蔵は周弼の弟・研蔵の養子。周弼は周防大島の生まれで、萩藩主毛利敬親に召し抱えられ、弟の研蔵は明治天皇の大典医も務めた。

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青木周弼旧宅
 青木家旧宅が面する通りは江戸屋横丁と呼ばれている。しっくい塗の白壁に下見板張りの腰壁。土塀の向こうには夏みかんの木々が見える。青木家旧宅を出て北上すると、次にあるのが「木戸孝允旧宅」。こちらは建物自体が国指定史跡に指定されている。ちなみに、和田家に生まれ、幼名は和田小五郎。8歳で桂家の養子となり、桂小五郎を名乗るも、実名(諱)は孝允。木戸姓は33歳の時、藩主毛利敬親から賜り、木戸貴治に改名した。明治政府樹立後に木戸孝允と名乗るようになったらしい。1833(天保4)年にこの家に生まれ、養子後も養父母が早く亡くなったため、20歳までこの家で育ったという。建物自体は質素だが、築180年以上ということになる。
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木戸孝允旧宅と江戸屋横丁
 江戸屋横丁を抜けて表通りの呉服町筋は藩主が参勤交代の時に通った御成道で、豪商などが軒を連ねている。「菊屋家住宅」は、建築年は不明ながら、1604(慶長9)年の毛利輝元萩入国に従い、当地に屋敷を拝領したとあるので、江戸時代前期の建築とされている。代々、藩の御用達として本陣なども務め、御用商人として栄達を続けてきた。虫籠窓の並ぶ外観は質素ながら、内部は広く、書院から眺める庭の眺めもすばらしい。ちょうど新庭が特別公開中で、そちらも鑑賞させていただいた。
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菊屋家住宅
 西門から出た先が菊屋横丁。いったん呉服町筋に戻って、菊屋家住宅向かいの「旧久保田家住宅」を見学する。こちらは幕末から明治時代前期に建築された商家で、1階の細格子や2階の虫籠窓も太い格子で造られ、また、細格子が並ぶ「つし2階」もあって、菊屋家住宅よりも華やかな感じ。案内の女性から、萩の士族対策としての夏ミカン栽培の話などを聞かせてもらった。
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旧久保田家住宅
 もう一度、菊屋横丁に戻り、南下。菊屋家住宅のナマコ壁や白壁の土塀の向こう側には夏みかんの実も生って、感じの良い通りだ。高杉晋作誕生地は生家が残っているわけではないのでパス。高杉晋作銅像などを見て駐車場に帰る。
 次は松下村塾に向かうが、駐車場が満車のため、さらに東の「玉木文之進旧宅」へ向かう。玉木文之進松下村塾創始者。1842(天保13)年、松本村の自宅で開校したので「松本村塾」転じて「松下村塾」と言った。この地での松下村塾は1848年に廃止。その後、松下村塾は久保五郎左衛門や吉田松陰に引き継がれ、松陰神社内で継承されていった。茅葺の家屋は質素だが、きれいに保存されている。
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玉木文之進旧宅
 続いて、「伊藤博文旧宅」と「伊藤博文別邸」に向かう。旧宅は残念ながら雨漏りのため、茅葺屋根にシートが被せられていたが、総建坪29坪の小さな建物。老朽化が進んでいる。一方、別邸の方は1907(明治40)年も東京府荏原郡に建てられたもので、玄関と大広間、離れ座敷が移築されている。大広間廊下の一枚板による鏡天井や離れ座敷の節天井など、贅を尽くしている。以上で萩の町を離れ、秋芳洞などに寄って帰路についた。
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伊藤博文旧宅
 が、終える前に、前日に行った山口市内の建物も少し紹介。前日は湯田温泉に泊まったため、投宿する前に瑠璃光寺五重塔と旧山口藩庁門、旧山口県庁舎と県会議事堂を見学した。「瑠璃光寺五重塔」は1442(嘉吉2)年の建立。池越しに、緑の中に屹立する姿は実に美しい。
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瑠璃光寺五重塔
 「旧山口藩庁門」は幕末、毛利敬親が藩庁を萩から山口へ移転することを計画し、1867(慶応3)年に竣工したもので、堂々とした門構えが気持ちいい。その後、廃藩置県により山口藩は山口県庁となる。
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旧山口藩庁門
 「旧山口県庁舎」と「旧山口県議会議事堂」は1916(大正5)年に完成。妻木頼黄指導の下、武田伍一と大熊喜邦が設計した。煉瓦造2階建てで、要所に花崗岩を用いたモルタル塗り。後期ルネサンス様式というが、県庁舎正面玄関のポーチや両翼に大きく張り出した形は堂々として気持ちがいい。また議事堂は中央に塔が聳えて、きれいにまとまっている。
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山口県庁舎
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山口県議会議事堂
 最後に「ザビエル聖堂」へ行ったが、これは1998(平成10)年に再建されたもの。1952(昭和27)年に建築された建物のつもりでいたので少しがっかりした。現在の建物も、2本の尖塔や前庭の芝生広場も気持ちよく、いい建物だとは思うのだが。
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ザビエル聖堂
 以上、GWに回った「倉吉」「大森」「津和野」と「萩・山口」の町並みを紹介した。家族旅行の合間なので十分な時間は取れなかったが、多くの町並みを歩くことができて楽しかった。

津和野は重伝建にして日本遺産の街

 津和野と言えば、「アンノン族」や「るるぶ」の時代に萩と並んで大ブームとなった。私も学生時代に一度訪ねた記憶がある。それから40数年。今、津和野はどうなっているのか。GWに山陰を旅行した際に、津和野の町も歩いてきた。ちなみに旧津和野町は2005年に旧日原町と合併し、津和野町役場は旧日原町にあるので、昔の人は間違えないように。

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多胡家表門
 山口線を走るSLが展示された津和野町駅前を通り過ぎ、津和野町大橋手前の駐車場にクルマを停めて、町を歩いた。まず、「多胡家表門」から。門をくぐると殿町。門しか残っていないが、多胡家は津和野藩筆頭家老を務めた家。1860(安政7)年の建築と言う。殿町通りの向かい側には「藩校養老館」。高い白壁の手前には津和野観光の象徴、菖蒲が植えられた水路に鯉が泳いでいる。殿町通りに面する土塀の腰の部分は、濃淡の付いた瓦が張られたナマコ壁となっており、その上のしっくい壁や赤瓦屋根と一体となって、柔らかい色合いとなっている。
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藩校養老館と殿町通り
 通りを北上すると、左手にあるのが「津和野町役場津和野庁舎」。鹿足郡役所として1919(大正8)年に建設されたもの。入口には大岡家老門が建っており、こちらは江戸時代のもの。さらに進むと右手に「津和野カトリック教会」がある。1929(昭和4)年建築の木造平屋建てだがゴチック様式にステンドグラスもある。
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津和野町役場津和野庁舎
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津和野カトリック教会
 小さな信号のある交差点に面して、右手に「戝間家住宅」。左手には「旧河田家具店」。ともに2階の細格子と赤瓦の庇が美しい。また妻壁窓庇の方杖模様が力強い。しばらく行くと、右手に「分銅屋七右衛門本店」。津和野大火(1853年)の直後に焼け跡の廃材などを使用して建てられた火事場普請の家で、保存地区内最古の商家建築だという。その隣にある「山陰中央新報」の看板が上げられた建物は「旧布施時計店」で1934(昭和9)年建築の洋風木造建築。2階の切り込んだ窓や縦に3つ並んだ丸窓がモダンなイメージを醸している。
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戝間家住宅
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旧河田家具店
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分銅屋七右衛門本店
 その向かい側には「俵種苗店」。そして隣に「呉服商さゝや」。1854(安政元)年に創業されて以来、今も呉服商として立派に営業されている。左側の土蔵も立派だ。その向かいにあるのが「古橋酒造場」。建築は1921(大正10)年と比較的新しいが、堂々とした外観で町並みに溶け込んでいる。右隣にベージュ色のモルタル塗りの洋館が併設されているところが面白い。
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呉服商さゝや
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古橋酒造場
 さらに進むと右手に「橋本本店」。1717(享保2)年創業の津和野で最も古い造り酒屋だそうだが、建物は1883(明治16)年頃の建築。表に張り出した酒樽や杉玉が酒造場であることを示す。主屋の左側に門が付き、ナマコ壁の土蔵が並んでいる。その先にあるのが「俵屋華泉酒造」。こちらも1883(明治16)年頃に建てられた商家で、両側に土蔵が併設されている。2階は塗籠のむしこ窓になっているのが特徴だ。
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橋本本店
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俵屋華泉酒造
 続いて見えるのが「高津屋伊藤薬局」。1798(寛政10)年創業の薬種問屋で、森鴎外とも縁のある薬局で、1911(明治44)年の建築とされる。斜めに引き込んだ駐車スペースなどもあり、近年になってなお改修を重ねているようだ。
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高津屋伊藤薬局
 さらに足を伸ばすと、近代的な建物の「津和野町日本遺産センター」がある。町並みの案内があるかと思ったが、もっぱら2015(平成27)年に日本遺産認定された「津和野百景図」の展示と説明のための施設だった。それでもそこで初めて津和野が重要伝統的建造物群保存地区に選定されていたことを知った。1975(昭和50)年の重伝建地区制度が創設された当時には、津和野は既に観光地として有名だったこともあり、地区指定には至らなかったが、時代が変わり、ようやく2013(平成25)年になって津和野の重伝建地区に選定された。しかしここまで歩いてきて、重伝建地区の説明はほとんどない。文化庁では2015(平成27)年から日本遺産制度を創設し、これのPRに努めているようだが、重伝建地区の方が町並みや建物の価値もよく理解できるし、何より住民等と一体となった地域づくりにつながるのではないか。せっかく選定された重伝建地区がほとんど重視されていないことを残念に思う。
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森鴎外旧宅
 帰りは旅館などもある魚町通りを抜けて、新丁通りを通って駐車場まで戻り、その後、「森鴎外旧宅」まで足を伸ばした。久しぶりに訪れた津和野にはまだ十分に懐かしい時代の町並みが残されていた。この先も伝統的な建物を大切に、継承していってほしいと願っている。