倉吉の町並みを歩く

 GW中、山陰を旅行した。家族旅行なので鳥取砂丘秋吉台など、いわゆる観光地にも行ったが、古い町並みもいくつか訪れた。その中からまずは倉吉から報告をしたい。倉吉へは28日の午後に到着した。まず市役所にクルマを止める。本庁舎は1956年丹下健三の作品だ。コンクリート打ち放しの外装に、細い部材の手すりが廻っている。玄関上裏の格子状の小梁もきれいだ。

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倉吉市役所
 坂を下りて、商家が並ぶ本町通りを西に向かう。細い格子窓にオレンジ色の赤瓦がきれいだ。1998年に伝統的建造物群保存地区に選定され、2010年に区域を拡大している。四つ角にあるのは赤瓦七号館の元帥酒造。隣には火災で焼失した後に民家風に建設された「くら用心」がある。さらに赤瓦二号館の「くらよし絣」や赤瓦六号館「桑田醤油」が並ぶ。南側にも昭和レトロな雰囲気の店舗が並んでいる。打吹公園通りを過ぎるとやや人通りも落ち着くが、北側の高田酒造は蔵もあって風格がある。
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元帥酒造
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くら用心
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桑田醤油(本町通り側)
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高田酒造
 ところで、この地区は一般に「倉吉白壁土蔵群」と呼ばれるが、この本町通り沿いには細格子に赤瓦の商家が並び、白壁土蔵は少ない。灯篭が並ぶ弁天参道を抜けるとようやく、玉川の流れに沿って白壁の蔵が並ぶ特徴的な景観が広がる。川には鯉が泳いでいる。少し東に戻ると、打吹公園通りから右手川沿いに桑田醤油醸造場、左手に赤瓦五号館が並ぶ。ここが最も有名な撮影スポットか。
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玉川沿い
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白壁土蔵群(桑田酒造と赤瓦五号館「久楽」)
 「赤瓦五号館 久楽(くら)」は1階が玉砂利敷きのモダンな待合となっていて、1階のカウンターであずき入りのコーヒーを受け取ると、2階からしばし川沿いの景色を眺めながら休む。南側の蔵に向かって、川の上に小さな橋が架かり、搬入口になっている。北側には赤瓦一号館。こちらは土のままの黄土色の土壁。手前は土産物店、奥はギャラリー的なスペースになっているが、小屋組が手前は洋組のトラス、奥は和小屋組となっているのは面白い。打吹公園の前まで戻ると、竹細工の店もあったりする。
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赤瓦一号館
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玉川沿い
 ここでまち歩きを終えた。後でパンフなどを確認すると、旧国立第三銀行倉吉支店「白壁倶楽部」など、せっかくだから見ておけばよかったと後悔する建物もあった。残念。またの機会、は何時あるかわからないけど、今回がそもそもほぼ40年振りに訪れた。その時の記憶は「川沿いに蔵があった」という程度で、今回久しぶりに訪ねて、倉吉の魅力を再認識した。こじんまりとしているけど、いい町だ。

熱海のリノベーションまちづくり

 先日、都市住宅学会中部支部の主催で、熱海でまちづくり事業を展開する市来広一郎氏の講演会が開催された。中心市街地活性化の事例としてビジネス界では超有名人ということだったが、恥ずかしながら私は噂程度にしか知らなかった。著書「熱海の奇跡」は後日読むことにして、まずは何も知らないまま、講演を聞いてきた。
 まず若いことに驚いた、ちょうど40歳。熱海で生まれ、祖父の代から経営する銀行の保養所で育ち、東京都立大大学院理学研究科(物理学)終了後、世界27ヶ国をバックパーカーで放浪した。この時、イタリアの海岸から白い建物が並ぶ保養地の景観に「熱海と同じだ」と思ったり、クロアチアドブロブニクで暮らしの見える観光地を見たりしたことがその後の活動につながっていると言う。帰国後は経営コンサルタント会社に勤務したが、2007年に熱海へUターン。熱海でのまちづくりに取り組み始めた。
 熱海市の人口は約3万6千人。昭和の中頃には社員旅行などでホテルはどこも満員。熱海銀座も人とぶつからずには歩けないというほどの繁盛ぶりだった。しかし1965年頃をピークに観光客は減少し、2011年には半減以下の246万人にまで落ち込む。また、空き家率は全国の市で最も高い50.7%(もっともこれは別荘を含んでいるので、それを除くと23.9%)、高齢化率も47%にも達している。また、生活保護世帯率、出生率、未婚率、40代死亡率がいずれも静岡県ワースト1だそうで、これには仲居さんや芸子さんが多かったことなども理由として挙げられていた。一方で昼夜間人口比率は高く、隣接する伊東市湯河原町(神奈川県)などから通勤してくる人も多い。20㎞圏内の人口は80万人近くになるそうだ。
 当初1年間はどっぷりと熱海でのまちおこしに取り組もう、どうせダメモトという気持ちで帰ったそうだが、仲間とともに熱海を楽しむ体験ツアーを企画運営して街のファンを増やす取組を始めた。ちなみに当初の3年間ほどは塾講師をして生計を立てていたとのこと。2009年からは市や観光協会も巻き込んで「熱海温泉玉手箱実行委員会」を設立。「オンたま」として、昭和レトロな花街や喫茶店などを回るまち歩きツアー、海を活用したシーカヤック体験、熱海市南部の農業地域をベースにした農業体験など3年間で200種以上のツアーを開催し、5000人以上の方が参加した。これは必ずしも外来者向けの企画ではなく、あくまで地元の人が地元を楽しむという意図だったが、まち歩きツアーのガイドをしていて、中心市街地に多くの空き家があることを痛感した。一方で昭和レトロな看板などを喜ぶ建築家などの姿を見て、観光が歓楽・行楽型から暮らしを体験するようなものに変わってきている中で、中心市街地の存在は熱海の強みではないかと感じ、空き店舗を何とかしたいと考え始めた。
 市来氏が代表理事を務めるNPO法人atamistaは2009年8月に設立されている。公益事業コミュニティサイト「CANPAN」に掲載された活動概要を見ると、2007年当初は熱海の地域情報ポータルサイトを開設したり、まちづくりセミナーやHP構築支援などの地道な活動を行っている。こうした中で2009年に熱海市等と協働して「オンたま」が開催できたことは、NPOの初期における運営面でも大きかったように見える。ちなみに2011年、総務省のICT利活用広域連携事業を7000万円の規模で受託したが「何も残らなかった」と笑い、逆にこうした経験が行政の補助金や委託事業に依存した活動の限界を感じ、民間資金によるまちづくり会社の設立につながっていったと言う。
 2011年、中心市街地のリノベーションを目的とする会社「(株)machimori」を設立。空き店舗を再生した「CAFE RoCA」の開業(2012年)、元パチンコ屋をリノベーションした宿泊施設「guest house MARUYA」のオープン(2015年)、老舗の椿油屋の2階空きスペースを活用したコワーキングスペース「naedoko」のオープン(2016年)などを進めてきている。これらの事業を進めていくにあたって、まずはかつての熱海のメインストリート熱海銀座で事業を進めていこうと考えた。その地区を選んだ理由は3点。(1)熱海の古くからの中心地であること、(2)干物や椿油屋など老舗が多くこれらの店舗では後継者も育ってきていること、そして(3)30店舗のうち実に10店舗が空き店舗だったこと。実際、共同出資した仲間には干物屋の若旦那(ほぼ同年代)もいる。
 まずビジョンを掲げた。「クリエイティブな30代に選ばれるまち」。人通りのない通りにただオープンしても人は集まらないため、「CAFE RoCA」開業当初はコンサートなどのイベントを年100回以上も開催して、人を集めた。また2013年11月からは熱海銀座で2ヶ月に1回、歩行者天国にして40~50件の仮設店舗を並べる「海辺のあたみマルシェ」を開催した。普段1日500人程度の通りに5000人以上の人が集まるなど、かなりの集客があったが、これは熱海で開業したいという人を発掘することが目的。現在は空き店舗が2軒にまで減少したこともあり、今後の継続については検討中とのこと。ちなみに、実施にあたって各店舗からの合意形成は得ることはせず、苦情に対しては後からひたすら謝ることにした。各店舗からの苦情は多かったが、それを機に信頼を得ていった面もあったようだ。
 「guest house MARUYA」は素泊まりで、夜は熱海の街なかの飲み屋へ。朝はご飯とみそ汁は提供するが、向かいに3軒ある干物屋で干物を買ってもらい、それを焼いて食べる。また温泉も近くには家康も絶賛したという日帰り温泉「大湯」がある、というように、街を使いこなしながら泊まる宿を目指している。一方、熱海市と協働し、「99℃ Startup program」という起業支援活動も行っている。先に紹介した「CAFE RoCA」は5年で閉店したが、その後はこのプログラムの受講修了生が起業して、コーヒースタンド「caffe bar QUARTO」とジェラードの店「La DOPPIETTA」がオープンしている。コワーキングスペース「naedoko」も企業支援の一環であることは言うまでもない。近年は大手資本の進出も周辺部では目立つようになってきたが、幸い中心部は建物等の規模が小さいため、まだあまり入ってきていないとのこと。中には、オーナーが断った事例もあるそうで、やはり不動産オーナーの意識を上げていくことが重要だ。
 こうしたリノベーションまちづくりを進めるにあたり必要な4つの要素として、(1)心ある不動産オーナーの存在、(2)オーナーとテナントを結ぶまちづくり会社の存在、(3)戦略的なビジョンを持つこと、(4)人財育成の仕組みを挙げた。そして、あくまで民間主導での公民連携を図り、民間自立型のプロジェクトを進めることを強調した。「志は高く、一歩目は低く」、「街を歩き、徹底的に観察する」といった言葉が印象に残る。市来氏がこのような活動ができるのも、経営コンサルタント時代の経験が活きているように思う。「奇跡の集落」を読んだ時にも感じたことだが、やはり地域の活性化には相応の経営ノウハウとセンスを有していることが不可欠なようだ。
 非常に興味深い講演だった。今回の講演はたまたま中部支部の中に、市来氏の高校の同窓生がいて、その縁で講師を受けてもらったと聞く。こうした地縁を大事にする姿勢もまた、まちづくりの成果につながっているのかもしれない。またぜひ熱海を訪れたい。その前にまずは「熱海の奇跡」を読むことにしよう。

奇跡の集落☆

 新潟県十日町市池谷集落と言えば、地域おこし協力隊の活動の中では最も有名な取組の一つのようだ。6世帯13名という廃村寸前の状態から11世帯23名まで盛り返し、限界集落から脱却していく過程を詳しく紹介している。筆者は、この集落に地域おこし協力隊として入った多田朋孔さん。しかし本書では多田さんがこの集落に入った2010年2月以前の状況についても関係者への聞き取り等により整理してまとめている。
 2000年、既に無住となっていた隣の入山集落まで市内から耕作のために通っていた山本浩史さんに、日本画家の稲田義樹さんから「山小屋を貸してほしい」という話があった。そこから始まった外部の人との交流が、2004年中越地震による被災を受けて、被災民・難民支援をしているNPO法人JENにつながり、多くのボランティアが入ることで集落の雰囲気が変わる。さらに、中越復興市民会議による集落の「宝探し」イベントを契機に、住民の心に「むらを絶やさない」という共通の目標が共有されることとなった。
 一方、集落の復旧活動として、デザイン策定支援事業や先導事業などを続ける中で、米の直販などの事業にも取り組んでいく。また、偶然のきっかけからNPO法人棚田ネットワークとつながり、その縁で2008年10月に農業研修生がやってきた。彼が事務局的な働きをする一方で、盆踊りの復活などに取り組み、これらの活動とネットワークが、多田さんを始めとする多くの若者を池谷集落に呼び寄せ、多くの移住者も現れ、NPO法人の設立や米作りなど現在の状況につながっていく。
 こうした過程を描いた第1部【実話編】の後に、これらを分析し、抽象化してまとめた「第2部【ノウハウ編】限界集落再生のポイント」が続く。こちらでは、地域おこし協力隊をうまく活用するためのポイントが協力隊員の立場、行政職員の立場からそれぞれまとめられるなど、これから地域おこし協力隊制度を導入しようとする集落や行政にとってもわかりやすい資料となっている。そして各所に、移住者やNPO支援者等によるコラムや既住民に対するインタビューなどが挿入されており、中には多田さんの妻である多田美紀さんによる本音コラムもあって面白い。最後には、明治大学の小田切徳美教授による解題も添えられ、実に楽しく読める地域おこしの実践書になっている。
 第2部の終わりに、これまでの経済成長一辺倒の考えではなく、経済と自然の恵みの循環が生まれるような仕組みづくりを目指しています」(P262)と書かれているが、まさにこうした暮らしと生産の仕組みこそが、人口減少する日本におけるこれからのモデルになるかもしれない。筆者の多田氏は、単に農村好きでこの地に来ただけではなく、それまでに経営コンサルタントや組織開発コーディネーターとしての経験を有していたことがこの結果につながっている。そしてもちろん多くの支援者とつながったという偶然も大きい。だから池谷集落は確かに特別ではあるが、「おいでん・さんそんセンターと足助の町並み」での紹介した通り、既に多くの地方でこうした暮らしに引き寄せられて移住する人々が増えていることも事実。時代は着実に変わりつつある。私にできることはそれらの動きを追うことだけではあるが、こうした本を読むとひょっとしたら日本の未来も意外に大丈夫かもしれないと明るい気持ちになる。

奇跡の集落: 廃村寸前「限界集落」からの再生

奇跡の集落: 廃村寸前「限界集落」からの再生

○復興基金は、池谷・入山集落の地域おこしの取り組みになくてはならない資金でした。……2008年10月、池谷集落に農業研修生がやってきました。……当時27歳の若者でした。期間限定とはいえ、外から若者がやってきて池谷分校に住み込みで地域おこしの取り組みに従事してくれたことは、池谷集落にとって非常に大きな一歩になりました。(P50)
○ジェンが池谷分校を拠点とするにあたって……なぜ震源から離れた池谷分校をあえて拠点にするのか……一つの理由として……もともと他の支援の及ばないところを選んで入るようにしている……もう一つは……このままいけば池谷も……消えていく運命をたどることは目に見えていましたから、単なる「震災からの復旧」ではなく、「消滅に向かうむらを変えるきっかけとなる活動」ができないかということです。それは……大きく言えば日本や社会を変えることにつながる。(P120)
限界集落……の場合は、外から移住者を受け入れ、そういう人が地域に根づいて子供が増えていくことの積み重ねが、長期的に見て集落の存続につながります。この一連の流れを形にすることこそ、私のイメージする「地域おこし」なのです。……イベント…特産品…古民家を改修……これらは「手段」です。……ところが、長期的なイメージを持たない場合・・・…往々にして取り組みを行うこと自体が目的になってしまい、結果、逆に地域が疲弊することもよくあります。(P152)
○自分事で取り組む人がいて、主体的に地域づくりが進められているのであれば、補助金や外部のコンサルタントを使うことを私は否定しません。……「補助金コンサルタントはこちらが戦略をもって使わないといけない」ということです。……地域住民らがしっかりとした信念と長期的な視点を持って主体的に取り組んでいるのとそうでないのとでは……結果はまったく違ったものになるでしょう。(P155)
○今後目指すべき方向性は、ある一定の地域内で生活に必要なものが自給できる仕組みをつくり、顔が見える関係の楽しいコミュニティがいろんな地域にできることが大切であると考えています。そして、他の地域ともつながりを持ちつつ、結果的に国内で生活に必要なものがすべてなんらかの形で賄える仕組みをつくっていくことが求められていくと思います。……今後、自然の資源が豊富な農村と最新の技術開発ができる都会が草の根的に現場レベルで連携し、生活に必要な自給経済環の仕組みづくりに取り組んでいければうれしく思っています。(P256)