幸せな名建築たち☆

 (一社)日本建築学会が編著となっている。会報「建築雑誌」に連載されていた41の住宅・建築物に「聴竹居」を加え、42の住宅・建築物の居住者・所有者・管理者に対するインタビューをまとめたもの。会誌編集委員会の下に、『幸せな名建築たち』小委員会が設置されていたのも知らなかったが、さぞかし楽しい作業だったことだろう。また、権威ある建築学会がこんな楽しい本を出版したこともうれしい。時代は変わりつつある。
 当たり前だけど、本書に登場する居住者・所有者・管理者は、みんな誇らしそうで、うれしそうだ。そして言葉に嘘がない。もちろんこれからも維持できていくのかという危惧や不安はそれぞれ持っているだろうが、今はそれらの住宅・建築物を所有し、管理していることに誇りと喜びをもっている。いいなあ。
 そして単に「いいでしょ」とか「大変なのよ」というだけではなく、それぞれの専門や経験を通じて、「名建築とは?」という問いに対して、真摯な回答を寄せている。例えば、林雅子の「象の家」に住む建築史家の村松伸氏は、「記憶をもっと早く抽象化しないといけない」(P8)と言う。住み利用しつつ、その価値を広く一般的な意味として語れ、ということか。「住むということは、設計者で……ある石井修の哲学を身体に浴びながら生きていくこと」(P11)という石井修の娘・石井智子氏の言葉も重い。
 やはり日常をさらけ出してその建物とつきあうからなのか、住宅の方が居住者の言葉が重く、深い。一方で、建築物については、いかに保存し維持していくかという技術的(金銭的な意味も含めて)な言葉が多いように感じる。加えて、建物とは地域社会や住民にとってどういう役割を果たし、意味を持つものなのかという意見や意思。いずれも興味深い。
 私が知らなかった建物も多くあった。いつかそれらの外観だけでも観る機会があればと思う。実物に会える日を楽しみにしたい。

幸せな名建築たち 住む人・支える人に学ぶ42のつきあい方

幸せな名建築たち 住む人・支える人に学ぶ42のつきあい方

○最近の保存は「全部残せ」という感じがあるけれども、残す価値は自分で見つけ出していくものです。全部を残すと未来の人たちの新しい想像力を拒絶することがあるかもしれません。/記憶をもっと早く抽象化しないといけないと思います。3年とか10年を超えてしまったら、その価値や意味を見直して、言語化して役立てるとか、物として役立てるとか、ただあればよいようなものではないと思っています。(P8)
○人は住んでいる家から常に影響を受けますから、ここに住むということは、設計者であり父である石井修の哲学を身体に浴びながら生きていくことなのかと思います。設計者の哲学によってつくられた空間が何十年経っても価値が変わらず、そこにいるとゆったりくつろいで元気になるといったプラスの影響を住む人に与えるのが名建築だと思います。建物をつくった人のメッセージ、生き方に染まりながら生きていくことが、名建築に住むことではないでしょうか。(P11)
○結局、時代と相性が合うことが重要で……時代に対して一生懸命問いかけたり、それに答えた結果の住宅が、住む人に愛され続けて、歳を重ねていくと名建築と呼ばれるようになるのだと思います。/忘れがちなのが、住んでいる人に愛されているかどうかです。築50年ぐらいは評論家の意見で建築は残りますが、築100年を超える建築は、その建築を愛している人がいるかいないかで決まるのではないでしょうか。(P33)
○初期の建築群を維持していく苦労というと、財政的な問題よりも老朽化に伴って古い建物を壊して新しくつくり直したいという圧力に耐えられるかどうかかもしれません。……誰もが当たり前にそこに建っていると思える建物は、長い年月をかけて建物がその景色に同化し、誰もが同化した風景を認識しています。そう思える建物が名建築として未来に残されていくものではないでしょうか。(P100)
○人をどう育てるか、人に対してどう優しいか、人がそこにいて楽しくなったり嬉しくなったり、明るくて朗らかな生活ができる、そういった人を包む建築が名建築だと思います。建っているだけでは、名建築ではないのです。……ここは気持ちよいし楽しいし明るくなれる。そういうものが望まれ、時代がこの建築を選ぶ、未来に受け入れられる時代が来ると思います。(P113)

「住宅団地再生」連絡会議in高蔵寺

 今年は高蔵寺ニュータウン入居開始50周年ということで、様々な催しが開かれている。6月には、ニュータウンで最初に入居が始まった藤山台地区の住民有志による「藤山台50周年記念式典が高蔵寺まなびと交流センター「グルッポふじとう」体育館で開催された。
 この種の住民主体によるイベントは、春日井市が50周年記念ロゴを作成し、認定事業に対してロゴの使用を促しているため、色々な取組が行われている。春には社会福祉協議会が主催する「さくらウォーク」というウォーキングイベントが開かれ、7月にサンマルシェ(ニュータウンの中心商業施設)で開催された恒例の「きてみん祭」も50周年記念事業の冠を付けていた。
 そして、10月にはUR都市機構が中心となり、「高蔵寺ニュータウンまちびらき50周年 魅力ある街 トークセッション」も開かれた。これもグルッポふじとうの体育館で開催され、女優・タレントのいとうまい子や春日井広報大使北京五輪シンクロナイズドスイミング代表の松村亜矢子らが壇上に上がり、多くの市民を集めていた。私も出席してみたが、もっぱら健康づくりに関する話題が中心で、高齢者にとっては興味のある話だったかもしれない。
 そして11月5日・6日と「『住宅団地再生』連絡会議in高蔵寺ニュータウン」が開催された。この会議は、地方公共団体や民間事業者が中心となり、郊外住宅団地の課題と方策を検討するため、平成29年に設立されたもので、今回が3回目の開催となる。6日は見学会が中心。5日はシンポジウムの後、分科会に分かれての意見交換会が開かれたが、このうちのシンポジウムに参加してきた。
 シンポジウムでは春日井市長の挨拶、国土交通省からの情報提供の後、春日井市から「高蔵寺ニュータウンの紹介」と、中部大学の服部敦教授から「高蔵寺ニュータウン計画からリ・ニュータウン計画へ」と題する基調講演が行われた。春日井市からの報告は既にこのブログでも書いてきた内容とほぼ同じなので省略。服部先生からは1967年鹿島出版会から発行された「高蔵寺ニュータウン計画」(高山英華編)を基に、ニュータウン計画の推移などを説明し、現在のニュータウンの状況を紹介された。高山英華氏の係わりや津端修一氏の考えなどの部分では多少異論もあるが、概ね好意的な内容であり、気持ちよく聞いていられた。
 ちなみに「強力なワンセンター」という評価についてはそのとおりだが、一方で先生が主導して作成した「高蔵寺リ・ニュータウン計画」では「サブ核」の設置が提案されており、サブ核と強力なワンセンターとの関係やあり方について、先生がどう考えておられるのか、一度聞いてみたい。講演の終盤は、「計画資産(Designed Assets)」を生かしたまちづくりと、「計画されない資産(Not Designed Assets)」、すなわち住民活動やまちづくり会社の事業などを期待するという具合にきれいにまとめられていた。
 このシンポジウムで興味深かったのは、その後で報告された5件の事例発表だった。
 一つ目は、瀬戸市からの「菱野団地住民バス」の取組について。菱野団地は春日井市に隣接する瀬戸市で、昭和41年から開発され、45年から入居が始まった住宅団地だ。あの黒川紀章が全体設計をしているが、県営住宅、県公社住宅の周辺に戸建て住宅が建ち並び、県営住宅については順次建て替えが進められているが、団地全体の管理者は存在せず、中心部の商業施設はかなり老朽化してきている。
 住民バスについては、昨年社会実験として4ヶ月ほど運行され好評だったことから、今年8月から再スタートをしたもの。定員10名のワゴン車を1日10便運行しており、運賃は無料。費用のうち14.1%(市のコミュニティバスの収支率を採用)は自治会負担としている。瀬戸市ではようやく昨年11月に住民や学識者等による検討委員会を立ち上げ、菱野団地再生計画の策定を始めた。遅きに失したという感もあるが、今後の巻き返し、再生を期待したい。
 2番目は、堺市から「泉北ニュータウンまちびらき50周年事業」について。堺市では大阪府やURなども参加して、実行委員会を組織し、50周年事業を実施したとのこと。ただ、事業内容としては、シンポジウムや記念イベントの開催などが主で、これで1500万円近く使ってしまったというのは、本当に意味があったのかと思わざるを得ない。その点、春日井市高蔵寺ニュータウン50周年に際し、職員の手作りでロゴだけ作って、あとは住民やグルッポふじとうの自主事業等に委ねているのは、かなり賢い。もっとも当日は、連絡会議メンバー向けの説明だったので、取組の内の部分的な説明に留まっていたかもしれない。
 3番目は、春日井市から「高蔵寺ニュータウンにおける先導的モビリティを活用したまちづくり」。4番目は、中部大の豊田教授から「押沢台北ブラブラまつり」について。これらは既に、「高蔵寺ニュータウンについて(その2)(その3)」で紹介しているので割愛。でもブラブラまつりについては豊富なスライドで住民たちのイキイキとした姿が紹介され、楽しかった。
 最後に、「地域主体の構想づくりとその実践」と題して、「NPO法人まちの縁側育み隊」の名畑恵さんから、名古屋錦二丁目長者町地区の再生のまちづくりについて報告があった。NPOが参加して、住民と一体となって、計画づくりからしくみづくりへと進んでいった報告は迫力がある。この過程で、町内会などの地縁組織が「一般社団法人錦2丁目まち発展機構」を設立(2018年2月)され、さらにその100%出資により「錦2丁目エリアマネジメント株式会社」(2018年3月)が設立されている。こうした実践力はすばらしい。
 当日は「NPO法人まちの縁側育み隊」のメンバーにも数人お会いしたが、シンポジウム後の分科会ではさらに深い意見交換があっただろう。ただ残念ながら意見交換会テーマの中ではぜひ参加したいと思うようなテーマはなかった。これは現在の私の職域に関連してはということでもあるが。いずれにせよ、東部市民センターの500席のホールがほぼ満員となるような盛会な会議だった。これを機に高蔵寺ニュータウンはもちろん、全国のニュータウンにおいて、その計画遺産を生かした活性化が進むきっかけになればいいと思う。

ル・コルビュジエがめざしたもの

 ル・コルビュジエ論かと思って読み始めたら間違う。あとがきで書いているとおり、モダニズム建築に関連して書かれた多くの論考などを集めたものである。本書に続いて、ポストモダン以降の建築を論じた現代編もすぐに刊行される予定という。いや、もう発行されていた。「モダニズム崩壊後の建築」。引き続きこちらも読むことにしよう。
 だが、モダニズム建築について集中的に執筆されたものではなく、あくまで様々な媒体で書いてきた論考を集め、並べたものなので、各論考間の関係はなく、私が知らない建築家や批評家をめぐる考察があったり、また専門的・断片的であったりするので、読んでいてよく意味がわからない文章も少なくない。建築史を学ぶということはこうした論文を網羅的に読むということだろうか。研究者にならなくてよかった。
 それでも、筆者自身の立場や意見は全体を通して読むにつれて次第に見えてくる。いや、筆者は私よりも10歳ほども若いので、ポストモダンの台頭などを学生時代に見て、「今、何が起きているのか」と考えたことだろう。その頃には私は既に就職しており、そうした余裕がなかった。うらやましく思う。
 それはさておき、やはり近代編だけでは不十分に思う。現代における建築状況とそれに対する筆者の考察を読んで初めて、近代建築に対する視座も理解できるのではないか。ということで、さっそく現代編も読んでみることにしよう。とりあえず、図書館で予約。

○かつての建築家は、宗教や公共の施設、または宮殿や豪邸を設計していればよかった。それ以外はアカデミックな建築家の仕事とみなされなかったからである。しかし、近代建築家が新たに要求されたのは、都市問題の解決や個人住宅と集合住宅のプロトタイプをつくることだった。ゆえに、近代の建築家が旧来の建築と断絶したことを、単に様式を否定したというデザインの問題に還元するべきではない。彼らは、社会の問題に向き合い、これまでとは違うビルディングタイプに取り組んだ。そして時代の変化にあわせて、新しい職能を生んだのである。(P40)
○丹下自身、新都庁舎を東京だけでなく、日本のシンボルとして設計したと明言している。・・・彼は、1960年代の都市計画では構造の概念を導入し、やがて「構造体そのものが象徴性を帯びてくる」ことに気づき、建築でも「象徴と呼ばれる次元の表現」を意識しはじめる。一方では、伊勢神宮論を通じて、「現代建築にもシンボル性が必要」だと考えるようになった。そうした究極の作品として、新都庁舎は誕生したのである。(P191)
○近代の建築家において最もよく語られる人物は誰かといえば、間違いなくミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエである。例えば、二人の業績を原広司はこう図式化する。近代建築の総体は、ミースが描いた座標があって、ル・コルビュジエが様々な関数のグラフを描いたものだ、と。・・・藤森照信は、ミースこそがインターナショナル・スタイルの絶対零度とさえ言い切る。これを近代においてミースは様式の極限を追求したのに対し、ル・コルビュジエは多様な表現を展開したと言い直せるかもしれない。(P303)
○最新のコンピューター技術をとりいれた造形は面白いけれども、やはりどこかヘンで、アントニオ・ガウディのオーセンティシティという意味ではもう微妙な建築だ。・・・現在のサグラダ・ファミリアはガウディ個人の作品というよりも、様々な人の熱狂的な思惑と新技術が入り、別の意味で興味深いモニュメントに変貌した。(P323)
モダニズムがいかにつくるのかに主軸を置いた計画者サイドの議論だったのに対し、新しく登場したのは、受容者サイドがいかにそれを把握し、使うのかという視点だった。言うまでもなく、大学で専門的なデザイン教育を受けず、ジャーナリストとして活動を始めたジェイコブスは、都市を受容する一般人の立場を代弁している。(P405)