高蔵寺ニュータウンについて(その1)

 都市住宅学会の機関紙「都市住宅学」第102号に、依頼を受けて、高蔵寺ニュータウンの最近の動向等に関する文章を書いた。著作権の問題もあるが、せっかくまとめたことでもあり、適当に改変しつつ、ここに掲載したい。
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 高蔵寺ニュータウンは、1968年に最初の入居者を迎えて以来、今年が50年目に当たる。高蔵寺ニュータウンが所在する春日井市も、今年、市制75周年を迎える。ちなみに、今年は、エベネザー・ハワードの「明日の田園都市」の初版が出版されて120年目に当たる。私自身は1979年にニュータウン内の高蔵寺高校の新設工事に関わり、翌年、ニュータウン内のUR賃貸住宅に入居して以来38年間、2回の転居はあったが、現在もニュータウンに住み続けている。まず、高蔵寺ニュータウンの現状とこれまでの取組についてまとめておく。
 高蔵寺ニュータウン名古屋市の北東に隣接する春日井市の東端に位置する。最寄りのJR中央本線高蔵寺」駅までは名古屋駅から約30分。高度成長期における名古屋圏の住宅需要を受け入れるため、日本住宅公団により1960年に事業経営方針が決定され、1963年に都市計画決定、1966年2月には土地区画整理事業の事業認可を得て事業が進められた。施行面積は約702ha。公共・公益的施設用地を除く約394haが住宅用地となっており、うちUR賃貸を中心とする集合住宅用地が約114ha、公団分譲地が約75ha。残りは民有地となっている。なお、土地区画整理事業は1981年度に完了した。ちなみに、当初の開発区域は約850haあったが、自衛隊敷地のある第3工区は事業化できず、現在に至っている。
 高蔵寺ニュータウンは、大阪府企業庁が開発した千里ニュータウンに続き、日本住宅公団が初めて手掛けたニュータウンであり、①土地区画整理事業方式を採用したこと、②千里や多摩ニュータウン等と異なり、すべて春日井市という単一の市域に存すること、③ワンセンター方式を採用していること、などが特徴として挙げられる。なお、URや県・市等の出資により、高蔵寺ニュータウンセンター開発(株)が1973年に設立され、1976年にはセンター地区に商業施設「サンマルシェ」がオープンした。
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 事業計画による計画戸数・計画人口は数次の変更を経て、最終的には20,600戸・81,000人となっているが、現実には人口は1995年に52,215人でピークを迎え、2015年の国勢調査では45,217人。その後も減少を続けている。しかし、これを住宅の建て方別にみると、戸建て住宅の居住者数は最近15年間約30,000人超の横ばいで推移しており、人口減少はもっぱら集合住宅居住者の減少が要因となっている。また、高齢化率は2015年で31.7%となっており、春日井市全体の24.5%を上回って少子高齢化が進行している。
 一方、ニュータウンに隣接する地域では、つい最近まで組合施行の土地区画整理事業が施行されており、また、南接する名古屋市守山区志段味地区でも土地区画整理事業が進められていることから、サンマルシェを中心に半径5km圏内の国勢調査人口は134,333,人と5年前に比べ1.1%増加している。
 また、春日井市では2014年と2017年の2回、空き家調査が実施されている。この結果を見ると、戸建て住宅の空き家数は2014年調査293戸から2017年には286戸に減少。分譲マンションの空き家数も2014年の177戸から146戸に減少している。ちなみに、戸建て住宅の空き家率は2014年で3.2%であり、春日井市全体の7.3%(2013年住宅・土地統計調査)よりも低い。一方、UR賃貸住宅については2014年調査で1,344戸16.9%となっており、エレベーターのない中層住宅で空き家が多くなっている。URでは現在、ニュータウン内の高森台団地で団地再生事業を実施中であり、ここ数年、募集を停止していることから、近年の人口減少はこの事業による影響が大きいと思われる。
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 春日井市では入居開始から40年が経過した2007年に、県やURの参加も得て「高蔵寺ニュータウン活性化施策検討会」を設置し、住民アンケートや市民参加ミーティングなどを実施して、施策の検討を行った。この結果、サンマルシェ内に子育て支援拠点「東部子育てセンター」を2010年に開設。翌2011年には市民団体の活動拠点「東部ほっとステーション」を開設した。また、高蔵寺ニュータウンセンター開発(株)では2006年から、サンマルシェを発着点にニュータウン内を循環するバス2路線の運行(運賃100円)を開始している。
 一方、15歳未満の年少人口の減少に伴い、最初期に入居が始まった藤山台地区で3校あった小学校を1校に統合する方針が2013年に発表された。これを機に、春日井市によるニュータウンでの取組は一段と強化された。2014年3月にURと「高蔵寺ニュータウンに関するまちづくり支援に係る覚書」を締結するとともに、4月にはURや春日井商工会議所等と連携し「高蔵寺ニュータウン住宅流通促進協議会」を設立。当協議会の活動として、空き家等の実態調査やシンポジウムの開催、空き家リノベーションアイデアコンペの実施、空き家バンクの開設などが行われている。また、2015年には、市役所内に新たに「ニュータウン創生課」が設置され、廃校となる小学校施設の活用について検討を進めるとともに、「高蔵寺リ・ニュータウン計画」の策定を進めることとなった。さらにこの年、買い物弱者対策として「移動スーパーマーケット道風くん」のうちの1台がニュータウン内で移動販売を開始している。

 「高蔵寺ニュータウンについて(その2)」に続く。

多摩ニュータウンを歩いてきました。(その2)

 「多摩ニュータウンを歩いてきました。(その1)」から続く。
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 エステート永山はURが分譲した中層マンションだが、エステー鶴牧にも似た感じで、緑が多く清楚な佇まい。その手前には高層の民間分譲マンションが並んでいる。そして歩道の南側、旧西永山中学校跡地で都営住宅の建替工事が行われていた。西永山中学校は1980年に開校され、わずか17年で多摩永山中学校へ統廃合され、その後は西永山複合施設として福祉施設や市民活動施設として使用されてきた。光が丘団地でも感じたが、一斉に開発され、入居した団地の世代進行の速さが垣間見られる。
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 先を進むと右手にUR永山団地。永山南公園に面した高層住棟の1階には、永山団地名店街の店舗が並ぶ。けっして賑わっているとは言えないが、広い公園に面して、雰囲気は悪くない。橋を渡るとすぐ、今度は諏訪団地。こちらは都営住宅が広がっている。都営諏訪住宅では先に見た西永山中学校跡地と旧中諏訪小学校跡地への建設を第1期として建替え計画が進められている。都営諏訪団地は全部で41棟1548戸もある大規模団地で、全部で4期に分けて事業を進めるようだが、まだしばらく時間がかかりそうだ。ちなみに中心にある諏訪団地商店街は2階が住居になった長屋建て商店街だが、永山団地商店街に比べるとやや寂しいが、多摩ニュータウンの入居が始まった昭和46年にはオープンしており、多摩ニュータウン最古の商店街かもしれない。
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 商店街の中程にある歩道橋を渡り、北へ向かうと、UR分譲住宅の大型建て替えで話題となった「ブリリア多摩ニュータウン」(https://www.b-tamant.com/)に出る。従前1971年築の中層5階建て住棟が並ぶ640戸の団地が、地上11~14階建て7棟1249戸が入るマンションへと生まれ変わった。従前居住者を除き、分譲販売された684戸はすべて即日完売の人気振りだったという。経緯等は「”日本最大のマンション建て替え”を成功させた住民パワーの源とは:日経トレンディネット」
https://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20140411/1056577/)に詳しいが、容積率等が緩和され、従前戸数を大幅に上回る戸数を建設できたことが大きい。団地の中心にはコミュニティカフェやフィットネススタジオなどもある豊かな共用部が作られ、団地内にも緑が多く、気持ちいい空間を実現している。ただし、永山駅まではかなり距離がある。しかも駅周辺のショッピングセンターから団地までは登り坂。駅へ向かう途中で買い物袋を下ろして休憩をしている高齢者を少なくとも2名は見た。
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 ここまで歩いてかなりボロボロな状態だったが、あとひと踏ん張り。京王永山駅から電車に乗り、南大沢まで行った。「ベルコリーヌ南大沢」は内井昭蔵がマスターアーキテクトになって、アルセッドや坂倉建築研究所など錚々たるメンバーが設計に参加して建設された住宅団地。オレンジの瓦やレンガ、三角屋根など南欧風の外観で建築された1990年当時、大いに話題になった。その後は欠陥建築問題などもあったが、建替えするなどして対応した。建築後から28年、ようやく今回見学をした。率直な感想としては、「今となっては一般的なデザイン」という感じ。想像していた以上に高層住棟が多い。それでも全体としての統一感はある。もっとも後で調べてみると、当日は疲れて、入口のUR賃貸住宅街区と都営南大沢団地しか行っていない。さらに奥の分譲街区や南大沢学園あたりも歩くと面白そうだ。次回の楽しみに取っておこう。
 南大沢駅周辺は、首都大学東京三井アウトレットパークもあって若者でにぎわっている。駅前のスタバでフローズンティーを飲んだら、冷たくておいしかった。帰りは京王電鉄で橋本まで出て、横浜線経由、新横浜から新幹線で帰ったが、途中で頭痛がひどくなってきた。これはきっと熱中症の症状だ。暑い中を歩き過ぎた。久しぶりの多摩ニュータウン。面白かったが、半日で歩くには広過ぎる。東京出身の会社の同僚に聞いたら、「多摩ニュータウンなんてダサい。今は港北ニュータウンか、千葉方面でしょ」と言われた。そうなのか。でも住環境としては十分いい環境なのだが。住み着いて、高齢化して、その後の位置付けが課題なのかもしれない。東京へ通勤する家族が多く押し寄せる状況には今はないということか。

多摩ニュータウンを歩いてきました。(その1)

 先月の猛暑の最中、いやそれでも曇りがちで、名古屋に比べればまだしのぎやすい天気だった。上京する機会があり、ついでに多摩ニュータウンを歩いてきた。午前中に練馬区で用事があったため、その後、光が丘団地を見学。中心の商業施設IMAで食事をした後、少しその周辺を歩いてみた。IMAの東側には幅の広い歩行者専用道が通っており、少し歩くと、広大な光が丘公園につながっている。周辺のマンションはどれも公共住宅らしい仕様だが、きれいに手入れされている。公園の南東には練馬光が丘病院。そしてその向かい側では大規模な工事が行われていた。調べてみると、清掃工場の建替え工事。住宅団地の中央に清掃工場があるというのは、周囲の既成市街地への配慮の結果だろうが、周辺環境へ十分配慮されていれば特に問題はない。
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 入居開始が1983年。都営地下鉄大江戸線の開通が1991年で、その間はやや陸の孤島という感じだったのではないか。でも1995年には「子どもの数が激減。小中学校の統廃合案が実施」Wikiに書かれており、団地が開発されると一気に入居が集中した当時の東京における住宅事情が想像される。少し歩いた後、地下鉄で新宿に出て、京王電鉄多摩ニュータウンに向かった。
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 京王多摩センター駅に降り立つと、まずは広大なペデストリアンデッキを南に向かう。20年近く前にサンリオピューロランドへ行った時も、その広さに驚いたが、やはりすごいなあ。名古屋から出てきた田舎者はまずはその規模感に驚く。大規模商業施設に挟まれたパルテノン大通りを進むと、階段がそそり立つコミュニティセンター「パルテノン多摩」がある。入り口に「多摩ニュータウン建物ウォッチング」という告知があったので、覗いてみた。一室で開催しているかと思ったら、4階の廊下にグルっとパネルが掲示されているだけ。それでもこれから多摩ニュータウンを歩こうという者にとっては、まずはここで、過去に話題になった住宅などを思い起こした。
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 4階から南側へ抜けると、多摩中央公園。気持ちのいい芝生広場が広がるが、暑いので木陰を縫ってゆくと、「遊歩道・多摩よこやまの道」の看板が出ている。事前にガイドマップも入手しており、この案内に沿って歩くことにした。しばらく歩くと、公園内に民家が現れる。「旧富澤家住宅」。ニュータウン内でこうした古い民家を見かけるのは面白い。代々の連光寺村の名主の家で、1990年に復元移築したもの。かなりの規模を持ち、前面の庭と池も気持ちいい。桜美林大学の施設を抜けると、「プロムナード多摩中央」団地の中を通る。
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 1987年建築、坂倉建築研究所設計。団地の中央を走る歩行者専用道路に向けて、アトリエなどに利用できるフリースペースと称する1室を持つ「プラス1住宅」が並ぶ形式は当時かなり話題となって、私も見学に訪れた記憶がある。フリースペースはどこもカーテンが引かれ、積極的に店舗などで利用されているところはなかったが、日に焼けたシェードに微かに「アトリエ」の文字が読めたりして、名残りは残っている。何より樹木が育ったプロムナードにフリースペースが変化を付けた外観は歩いていても気持ちがいい。
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 中高層の団地を抜けると、低層住宅が集まった「タウンハウス落合」と「タウンハウス鶴牧」がある。歩行者専用道から引き込まれるように入っていくと、2階建ての長屋建て住宅に囲まれてインターロッキングの道路空間があり、アールの付いた玄関ポーチや赤いスペイン瓦、2階窓下棚に置かれた鉢物など、どこか南欧を思わせる街並みだ。不動産情報によれば、このあたりは1982年前後の建築で、2500万円前後で取引されているらしい。
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 西に向かって歩くと、公園の突き当りに小さな水場があり、子供たちが遊んでいる。鶴牧東公園。ここの鶴牧山から多摩ニュータウンが一望できるというので登ってみた。登頂30秒。確かに360度、多摩ニュータウンが一望。高層マンションや中層マンション、その先には煙突も見える。公園もよく整備されており気持ちいい。だが暑い。さまざまな住宅が見える中でもタウンハウスに目が行って、南東方向、タウンハウス鶴牧を経て、奈良原公園を東に向かう。
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 タウンハウス鶴牧の三角の妻面の窓辺に飾られた赤いベゴニアがきれい。また囲み庭もいい感じ。奈良原公園内にはテニスコートがあり、プレーを楽しみ人の姿が見られた。公園の南側がエステー鶴牧。白を基調とした外観は品のある感じ。この後、様々なタイプの外観を有した集合住宅が現れる。これらをクリップして歩くのも面白いかもしれない。橋を渡って宝野公園。球技場ではラグビーをしていた。遊歩道のルートに従い、少し南に下がって、るんるん橋、恐竜橋を渡る。歩道橋に色々な名前が付けられているところが面白い。恐竜橋には金属製の恐竜のモニュメントが設置されていた。
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 落合中学校、落合団地、豊ヶ丘団地を抜けて、白雲橋を渡る。このあたりからかなりバテてきて、記憶も散漫。妻面タイル張りやアールの付いたバルコニーなど色々な外観のUR賃貸住宅が並んでいた。さらにコスモフォーラム多摩は民間分譲マンション。ホームタウン貝取エステー貝取はUR分譲住宅のようだ。歩いていたら、京王ストアの移動販売車が止まっていた。次のところへ移動すべく片付けの最中で、客はいなかったが、「京王ほっとネットワーク」のサイトを見ると、かなりきめ細かくニュータウン内を巡回している。移動販売だけではなく、空き家巡回や買い物サポート、リフォーム、家事手伝いなど様々な事業を展開している。多摩市の支援もあるようだが、民間ベースでこれらの事業が展開されているのがすばらしい。続いて、青陵中学校の前を通り、都営貝取2丁目団地を過ぎて、さんかく橋を渡り、永山地区に入る。
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 長いので、続きは(その2)へ。