多摩ニュータウンを歩いてきました。(その2)

 「多摩ニュータウンを歩いてきました。(その1)」から続く。
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 エステート永山はURが分譲した中層マンションだが、エステー鶴牧にも似た感じで、緑が多く清楚な佇まい。その手前には高層の民間分譲マンションが並んでいる。そして歩道の南側、旧西永山中学校跡地で都営住宅の建替工事が行われていた。西永山中学校は1980年に開校され、わずか17年で多摩永山中学校へ統廃合され、その後は西永山複合施設として福祉施設や市民活動施設として使用されてきた。光が丘団地でも感じたが、一斉に開発され、入居した団地の世代進行の速さが垣間見られる。
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 先を進むと右手にUR永山団地。永山南公園に面した高層住棟の1階には、永山団地名店街の店舗が並ぶ。けっして賑わっているとは言えないが、広い公園に面して、雰囲気は悪くない。橋を渡るとすぐ、今度は諏訪団地。こちらは都営住宅が広がっている。都営諏訪住宅では先に見た西永山中学校跡地と旧中諏訪小学校跡地への建設を第1期として建替え計画が進められている。都営諏訪団地は全部で41棟1548戸もある大規模団地で、全部で4期に分けて事業を進めるようだが、まだしばらく時間がかかりそうだ。ちなみに中心にある諏訪団地商店街は2階が住居になった長屋建て商店街だが、永山団地商店街に比べるとやや寂しいが、多摩ニュータウンの入居が始まった昭和46年にはオープンしており、多摩ニュータウン最古の商店街かもしれない。
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 商店街の中程にある歩道橋を渡り、北へ向かうと、UR分譲住宅の大型建て替えで話題となった「ブリリア多摩ニュータウン」(https://www.b-tamant.com/)に出る。従前1971年築の中層5階建て住棟が並ぶ640戸の団地が、地上11~14階建て7棟1249戸が入るマンションへと生まれ変わった。従前居住者を除き、分譲販売された684戸はすべて即日完売の人気振りだったという。経緯等は「”日本最大のマンション建て替え”を成功させた住民パワーの源とは:日経トレンディネット」
https://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20140411/1056577/)に詳しいが、容積率等が緩和され、従前戸数を大幅に上回る戸数を建設できたことが大きい。団地の中心にはコミュニティカフェやフィットネススタジオなどもある豊かな共用部が作られ、団地内にも緑が多く、気持ちいい空間を実現している。ただし、永山駅まではかなり距離がある。しかも駅周辺のショッピングセンターから団地までは登り坂。駅へ向かう途中で買い物袋を下ろして休憩をしている高齢者を少なくとも2名は見た。
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 ここまで歩いてかなりボロボロな状態だったが、あとひと踏ん張り。京王永山駅から電車に乗り、南大沢まで行った。「ベルコリーヌ南大沢」は内井昭蔵がマスターアーキテクトになって、アルセッドや坂倉建築研究所など錚々たるメンバーが設計に参加して建設された住宅団地。オレンジの瓦やレンガ、三角屋根など南欧風の外観で建築された1990年当時、大いに話題になった。その後は欠陥建築問題などもあったが、建替えするなどして対応した。建築後から28年、ようやく今回見学をした。率直な感想としては、「今となっては一般的なデザイン」という感じ。想像していた以上に高層住棟が多い。それでも全体としての統一感はある。もっとも後で調べてみると、当日は疲れて、入口のUR賃貸住宅街区と都営南大沢団地しか行っていない。さらに奥の分譲街区や南大沢学園あたりも歩くと面白そうだ。次回の楽しみに取っておこう。
 南大沢駅周辺は、首都大学東京三井アウトレットパークもあって若者でにぎわっている。駅前のスタバでフローズンティーを飲んだら、冷たくておいしかった。帰りは京王電鉄で橋本まで出て、横浜線経由、新横浜から新幹線で帰ったが、途中で頭痛がひどくなってきた。これはきっと熱中症の症状だ。暑い中を歩き過ぎた。久しぶりの多摩ニュータウン。面白かったが、半日で歩くには広過ぎる。東京出身の会社の同僚に聞いたら、「多摩ニュータウンなんてダサい。今は港北ニュータウンか、千葉方面でしょ」と言われた。そうなのか。でも住環境としては十分いい環境なのだが。住み着いて、高齢化して、その後の位置付けが課題なのかもしれない。東京へ通勤する家族が多く押し寄せる状況には今はないということか。

多摩ニュータウンを歩いてきました。(その1)

 先月の猛暑の最中、いやそれでも曇りがちで、名古屋に比べればまだしのぎやすい天気だった。上京する機会があり、ついでに多摩ニュータウンを歩いてきた。午前中に練馬区で用事があったため、その後、光が丘団地を見学。中心の商業施設IMAで食事をした後、少しその周辺を歩いてみた。IMAの東側には幅の広い歩行者専用道が通っており、少し歩くと、広大な光が丘公園につながっている。周辺のマンションはどれも公共住宅らしい仕様だが、きれいに手入れされている。公園の南東には練馬光が丘病院。そしてその向かい側では大規模な工事が行われていた。調べてみると、清掃工場の建替え工事。住宅団地の中央に清掃工場があるというのは、周囲の既成市街地への配慮の結果だろうが、周辺環境へ十分配慮されていれば特に問題はない。
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 入居開始が1983年。都営地下鉄大江戸線の開通が1991年で、その間はやや陸の孤島という感じだったのではないか。でも1995年には「子どもの数が激減。小中学校の統廃合案が実施」Wikiに書かれており、団地が開発されると一気に入居が集中した当時の東京における住宅事情が想像される。少し歩いた後、地下鉄で新宿に出て、京王電鉄多摩ニュータウンに向かった。
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 京王多摩センター駅に降り立つと、まずは広大なペデストリアンデッキを南に向かう。20年近く前にサンリオピューロランドへ行った時も、その広さに驚いたが、やはりすごいなあ。名古屋から出てきた田舎者はまずはその規模感に驚く。大規模商業施設に挟まれたパルテノン大通りを進むと、階段がそそり立つコミュニティセンター「パルテノン多摩」がある。入り口に「多摩ニュータウン建物ウォッチング」という告知があったので、覗いてみた。一室で開催しているかと思ったら、4階の廊下にグルっとパネルが掲示されているだけ。それでもこれから多摩ニュータウンを歩こうという者にとっては、まずはここで、過去に話題になった住宅などを思い起こした。
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 4階から南側へ抜けると、多摩中央公園。気持ちのいい芝生広場が広がるが、暑いので木陰を縫ってゆくと、「遊歩道・多摩よこやまの道」の看板が出ている。事前にガイドマップも入手しており、この案内に沿って歩くことにした。しばらく歩くと、公園内に民家が現れる。「旧富澤家住宅」。ニュータウン内でこうした古い民家を見かけるのは面白い。代々の連光寺村の名主の家で、1990年に復元移築したもの。かなりの規模を持ち、前面の庭と池も気持ちいい。桜美林大学の施設を抜けると、「プロムナード多摩中央」団地の中を通る。
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 1987年建築、坂倉建築研究所設計。団地の中央を走る歩行者専用道路に向けて、アトリエなどに利用できるフリースペースと称する1室を持つ「プラス1住宅」が並ぶ形式は当時かなり話題となって、私も見学に訪れた記憶がある。フリースペースはどこもカーテンが引かれ、積極的に店舗などで利用されているところはなかったが、日に焼けたシェードに微かに「アトリエ」の文字が読めたりして、名残りは残っている。何より樹木が育ったプロムナードにフリースペースが変化を付けた外観は歩いていても気持ちがいい。
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 中高層の団地を抜けると、低層住宅が集まった「タウンハウス落合」と「タウンハウス鶴牧」がある。歩行者専用道から引き込まれるように入っていくと、2階建ての長屋建て住宅に囲まれてインターロッキングの道路空間があり、アールの付いた玄関ポーチや赤いスペイン瓦、2階窓下棚に置かれた鉢物など、どこか南欧を思わせる街並みだ。不動産情報によれば、このあたりは1982年前後の建築で、2500万円前後で取引されているらしい。
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 西に向かって歩くと、公園の突き当りに小さな水場があり、子供たちが遊んでいる。鶴牧東公園。ここの鶴牧山から多摩ニュータウンが一望できるというので登ってみた。登頂30秒。確かに360度、多摩ニュータウンが一望。高層マンションや中層マンション、その先には煙突も見える。公園もよく整備されており気持ちいい。だが暑い。さまざまな住宅が見える中でもタウンハウスに目が行って、南東方向、タウンハウス鶴牧を経て、奈良原公園を東に向かう。
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 タウンハウス鶴牧の三角の妻面の窓辺に飾られた赤いベゴニアがきれい。また囲み庭もいい感じ。奈良原公園内にはテニスコートがあり、プレーを楽しみ人の姿が見られた。公園の南側がエステー鶴牧。白を基調とした外観は品のある感じ。この後、様々なタイプの外観を有した集合住宅が現れる。これらをクリップして歩くのも面白いかもしれない。橋を渡って宝野公園。球技場ではラグビーをしていた。遊歩道のルートに従い、少し南に下がって、るんるん橋、恐竜橋を渡る。歩道橋に色々な名前が付けられているところが面白い。恐竜橋には金属製の恐竜のモニュメントが設置されていた。
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 落合中学校、落合団地、豊ヶ丘団地を抜けて、白雲橋を渡る。このあたりからかなりバテてきて、記憶も散漫。妻面タイル張りやアールの付いたバルコニーなど色々な外観のUR賃貸住宅が並んでいた。さらにコスモフォーラム多摩は民間分譲マンション。ホームタウン貝取エステー貝取はUR分譲住宅のようだ。歩いていたら、京王ストアの移動販売車が止まっていた。次のところへ移動すべく片付けの最中で、客はいなかったが、「京王ほっとネットワーク」のサイトを見ると、かなりきめ細かくニュータウン内を巡回している。移動販売だけではなく、空き家巡回や買い物サポート、リフォーム、家事手伝いなど様々な事業を展開している。多摩市の支援もあるようだが、民間ベースでこれらの事業が展開されているのがすばらしい。続いて、青陵中学校の前を通り、都営貝取2丁目団地を過ぎて、さんかく橋を渡り、永山地区に入る。
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 長いので、続きは(その2)へ。

「都市の正義」が地方を壊す☆

○日本社会の人口減少は、地方のみならず首都圏を含めた国民全体の課題である。そして東京一極集中はこの国の構造そのものだから、首都・東京こそがこの問題の中心的な当事者であるはずだ。/にもかかわらず、国民の多くがこの地方創生をまるで対岸の火事のように感じ、・・・人口減少問題をまるで地方に責任があるかのように押し付けてしまっている。(P4)

 「はじめに」においてから怒っている。地方創生は「人口減少と東京一極集中の阻止」だったはずが、いつの間にか、地方が問題の元凶にさせられ、「競争と淘汰」の中に投じられてしまっている。このことは「地方消滅の罠」で既に危惧し、批判してきたことだ。それから3年余。日本創生会議の増田レポートを受けて始まった地方創生(まち・ひと・しごと創生)の取組が、当初はしっかりした現状認識からスタートしたと見えたものの、すぐに方向を変えて、自治体間の競争を煽るものになってしまった。
 「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」「同総合戦略」から読み解き、その後の各年の「基本方針」と「総合戦略」、そして2017年末に公表された中間評価まで検証した。その結果、いかに「地方創生」が名ばかりのものであり、かえって地方を疲弊させるものになってしまっているかを、北海道ニセコ町東神楽町山形県飯豊町の実例もまじえて検証し、批判する。
 その元凶は「都市の正義」。そして最大の要因はすべてを「経済」中心で考える思考法であり、それを押し付ける政府。第1章でそうした政策としての「地方創生」を分析した後に、第2章で「人口減少」の真因である「都市化」を指摘する。その背後には、国家を頂点とする中央集権的な「威信」の構造があること、また「依存」にも「良い依存」と「悪い依存」があることを第3章で示す。
 「選択と集中」「競争と淘汰」は非常時の論理であり、「排除」と不信を生み、最終的には国家を解体するものですらあることが第4章の前半で述べられている。地方創生の名の下に行われる観光政策にしろ、公共事業にしろ、すべては中央が儲かる仕組みになっている。そして利用された地方は「排除」され、捨てられるのみ。第4章の後半では、こうした中央集権・東京主義・経済優先・競争主義の「都市の正義」に対して、本来の「統治」とはいかにあるべきか。適正な規制、問題解決できる統治力、そして「多様なものの共生」による正しい「都市の正義」について問う。
 第5章「人口減少を克服するための地方創生とは」では、具体的な政策提案まで踏み込んでいる。しかし一方で、現実の政治状況を見れば、そこへ移行していくのは相当に厳しい。本書が書かれたのは安倍政権がモリカケ問題などで大きく揺さぶられて、総裁選再選の行方が不透明な時期だったそうで、それゆえにまだ将来に対してある程度の希望を持つことができたようだ。しかし今は・・・。
 だが、本書で描くように、未来がまったく失われたわけではなく、「地方創生」という方向自体が間違っているわけでもない。ただ、現状認識と方向・方策が、政府と国民、中央と地方の間で大きくズレている。それを正さなければならない。山下祐介氏の示唆は常に現実と未来を冷静に見通し、かつ、人間味にあふれている。

○私たちはどこかで人口減少を経済の問題だと考えてしまっている。だが、そうしたすべてを経済中心に考える思考法そのものが、人口減少を引き起こす元凶なのだ。・・・家族をつくり子どもを生み育てるのは、経済ではなく人であり、社会だ。人や社会を否定する価値の導く政策が、人を生み育て、社会を健全に統治できるはずがない。(P111)
○あまりにも国家に権限が集中しすぎたことによって、日本中の機関が首都圏に集まり・・・事業所が集中して・・・多くの人が長距離移動を行って自らの役割と家族の形成を必死で両立させようとしている。/人が、社会が、経済や国家に合わせて動いている。だが、人はそれぞれ生きた生身の個体である以上、その頑張りには限界がある。その限界の表れが、合計特殊出生率の極端な低下ということなのだろう。(P148)
○依存には良い依存と悪い依存がある。/それぞれが完全に自立していては国家にならない・・・。互いに依存し合い、支え合い、補い合い、協力し合うことで分業は行われ、国家は成立する。・・・共依存はむしろ支え合いであり、国家にとって望ましく、必要なことである。/それに対し、私たち国民が今国家に対して陥っている依存は、どうも悪い依存のようである。/地域間の共依存からなる国家、そういうものはありそうだ。(P158)
○そもそも「選択と集中」とは、非常事態の論理なのである。それは一時的、限定的に使用すべきもので、決して社会の常態に持ち込んではならないものだ。・・・すべてを守ろうとすると闘いに負けてしまうので、一部の犠牲はやむを得ない―これが「選択と集中」の根幹にある考え方だ。そしてこの生存をかけた闘いが・・・内側に移されたときに、「競争と淘汰」が現れる。・・・「選択と集中」と「競争と淘汰」は・・・ある者たちの「排除」を伴うものだ。(P200)
○地方創生の目的は、「まち・ひと・しごとの好循環」を作るということだった。/ところがそれを最初のところで「まずはしごと」に集中した。集中した途端に、この政策は失敗したのである。そこで対流は止まり、循環はなくなった。・・・いまの都市の正義に欠けている一番大切なもの。/それは循環である。/循環がなくなると・・・依存が依存で止まる。共依存でなくなる。/そして何より、問題を解くことができなくなる。(P249)
○統治とは、適正なルールを仕立てて、暮らしや経済のゲーム・・・がずっと持続するよう調整することである。/社会に導入されているルールのうち、どこを規制し、どこを外すか。いずれにしても規制緩和とか自由とかが大切なのではなく、規制の内容が大切なのである。・・・「適正な規制」が必要なのである。それも状況に合わせた規制が。事態をしっかりと観察し、結果に応じて規制を変えていく。そういう能力が統治者には求められる。(P252)