次の震災について本当のことを話してみよう

 福和先生とは地元で昔から何かとお付き合いがある。講演会でいじられることもあれば、飲み会で同席したこともあった。本書には日頃から色々な機会に聞いてきた話がほとんど網羅的に書かれている。その点では内容的に特に驚くこともない。
 第2章の冒頭で、阪神淡路大震災を経験し、「防災」を研究テーマにしようと決めた経緯が書かれている。それは初耳。もともと福和先生は建築物の振動解析等が専門で、構造設計研修の講師として話を伺ったこともある。しかし、ここ20数年間はすっかり「防災」の専門家として、地震工学や地域防災の啓発に力を入れている。
 本書でも「口うるさく・・・脅したり、すかしたり、褒めたり」(P246)と書かれているが、そのやり方も最初のうちは面白いが、何度も経験していると次第に鼻についてくる。そのあたりは先生も相手を見ながら巧みに変化を付けているのだろうけど、結局、何をするか、どう行動するかは本人が決めることで、全員が福和先生のようにできるわけでもないし、したいわけでもない。そのあたりは難しい。過度に脅し過ぎると、かえってやる気を削ぎかねない。
 本書を読んだすぐ後で、友人から以下のようなサイトを教えてもらった。
 「2階で寝よう!」
 確かにこれならすぐにできる。それでもわが家では、2階に娘が寝て、私たち夫婦はその直下の部屋で寝ており、これを変えるのは難しそうだ。死ななければいいのか。壊れなければいいのか。憂いなく死ねればそれでもいいのか。そのあたりは人それぞれ。
 本書で書かれていることの多くは最悪の事態を想定して書かれているのであって、日本中が壊滅するわけではなく、たとえ首都圏や太平洋岸の諸都市が壊滅しても、日本海側や北海道・東北は無事かもしれない。中国地方や中部地方の山間部も大丈夫だろう。そして日本がいつまでも経済大国でいるとも限らない。本書で書かれる「本当のこと」は現在想定されることであって、「実際に起きること」ではない。だからこれを踏まえてどう行動するかは、個人個人に委ねられている。
 それでも、福和先生の講演に直接触れる機会がない一般の方には、本書の果たす役割は大きいだろう。本書には、地震の危険性から耐震化の現状、歴史や地名から見える危険地帯、そしてすぐにできる対策と防災社会への提言など、福和先生の全てが詰まっている。ぜひ一度は一般の方が読んでみることを勧めたい。

次の震災について本当のことを話してみよう。

次の震災について本当のことを話してみよう。

○今の日本人は、まだ何とかできるお金も知識も持っています。そして知恵もあるはずです。/そんな国民が何もやらずに30~40万人の犠牲者を出し、日本経済の破滅に端を発した金融不安で、世界を破綻に陥れるようなことになったらどうなるでしょうか。世界の人たちは、私たちを助けてくれるでしょうか。・・・まだ残された時間があると信じ、少しでも被害を減らす取り組みをすべての人が始めるべきではないでしょうか。(P33)
○昔の役所の建物は良い地盤に建った壁の多い建物が普通でした。この時期は技術もなかったので、構造計算をするときに壁は計算外にして、柱だけで安全性を確認していました。ですから、壁がある分だけ余裕たっぷりでした。一方で、今は技術が発達したので、壁の耐力をしっかり見込んで計算をしています。・・・科学が発達すると、自然を克服したと誤解して自然の怖さを忘れがちになり、安全性がおろそかになることもあります。技術の発達が、安全性よりもコストカットに使われれば、バリューエンジニアリングは、大きな矛盾と危険をはらんだ思想にもなります。(P83)
○建築構造の分野では、耐震性の高い建物が実現でき、免振や制振も開発して「終わった」と思っていました。・・・しかし、阪神の光景はショックでした。「終わった」はずの建築構造の分野が全然終わっていない。先端技術を使った高層建築はごく一握りで、技術をあまり入れていない一般の住宅がたくさん壊れ、多くの人が亡くなった。/先端ばかりやっていては災害被害は減らせない。私は「防災」を自分の最大のテーマにすることにしました。(P99)
原子力の世界は、あまりにもたくさんの専門家が関わっていて、お互いに情報交換することはめったにありませんでした。・・・建屋を担当している人は、原子炉やタービン、配管のことは知らず。逆も同様です。専門家はたくさんいますが、隙間が多くて間をつなぐ人がいません。/全体を見るような発想がなく、みんな部分的な担当者として動いていたのです。私自身、いまだに痛恨の想いがしています。(P110)
○言いにくいホンネも言うちょっと「口うるさい」人がいないと、面倒な防災対策は進みません。おせっかいな人が脅したり、すかしたり、褒めたり。人の感情に訴える道具や物語をつくって、ホンキになって伝えることも役に立ちます。時間はかかりますが、言い続けていれば少しずつ実現していきます。(P246)

港北ニュータウンへ行ってきました。

 港北ニュータウンと言えば、今や人口20万人を超える大ニュータウンで、今さら私が紹介するまでもないとは思うが、たまたま先日、港北ニュータウンを歩く機会があったので、報告をしておきたい。首都圏にお住まいの方には田舎者の見学記としてご笑覧いただきたい。
 港北ニュータウンを歩くことになったのは本当にたまたまで、というよりも私があまりに横浜のことを知らなかったがゆえの、私にとっては偶然の出来事だったのだが、夕方に横浜馬車道近くにあるUR本社へ行く予定があり、それまでの間、時間があったので、「どこか見学すべきところはないか」と社内の友人に聞いたところ、「それなら最近リニューアルしたショッピングセンター巡りとかどうですか」と、昨年9月にリニューアルした「ノースポートモール」と10月リニューアルオープンの「みなとみらい東急スクエア」を紹介された。どちらも市営地下鉄駅から遠くなく、半日で2ヶ所回ることも可能だと思い、まずは新横浜駅を降りて地下鉄ブルーラインに乗って「ノースポートモール」へ向かった。
 市営地下鉄は港北ニュータウンに近付くと、地上に出て、マンションも多く立地する中を走っていく。「センター北」駅を降りると、目の前に広い広場が広がり、正面には「ドンキホーテ」の看板がある商業施設「プレミア・ヨコハマ」。その左手には観覧車がひときわ目立つ「モザイクモール港北」。そして改札を出て右手にモダンなデザインが印象的な「YOTUBAKO」があり、目的の「ノースポートモール」はその先のデッキを渡った先にある。
f:id:Toshi-shi:20180626134311j:plain
 「ノースポートモール」の3階にエスカレーターで上がると、ファミリー&キッズコーナーはかなり充実している。また同じ階にあるフードコートも、多様な形状のベンチやイスが全530席もあって楽しい空間になっている。ウェンディーズで買ったハンバーガーを食べながら、これからどうしようかと考えた。「ここは港北ニュータウンじゃないか」「初めて港北ニュータウンにやってきた」「ニュータウンを見ずに、みなとみらい地区へ向かうのは惜しい」「でもそとは日差しが強くかなり暑そう」。自問自答しつつ逡巡したが、せっかく来たのなら、やはり港北ニュータウンを歩かないわけにはいかないと、「みなとみらい東急スクエア」はまたにして、しばらく歩いてみることにした。
f:id:Toshi-shi:20180626132015j:plain
 だが、実は港北ニュータウンについて何も知らない。住都公団が開発したとは思うが、その事業手法は? 面積は? 計画人口は? まずはフードコートでスマホ検索。概ねの概要を頭に入れた後、「センター北」駅前広場に戻り、「プレミア・ヨコハマ」の中を通ってそのまま北へ抜けた。歩行者道路が北へ伸びている。陸橋で幹線道路を跨ぎ、戸建て住宅の間を抜けて歩いていくと、緑豊かな緑道に出た。緑道の真ん中にきれいなせせらぎが流れている。左へ行けば東京都市大学(旧・武蔵工大)と思いつつ、右手へ向かう。「ビュープラザセンター」って何だろうと思いつつ、幹線道路の下をくぐり、徳生公園の池端に至る。ここまで本当に気持ちのいい空間。センター駅から程近いところにこんなにも豊かな自然空間があることに心底驚いた。
f:id:Toshi-shi:20180626132639j:plain
 しかしここから先はマンション街が続いている様子なので、強い日差しの中、そろそろ「センター北」駅に向かって戻ることにする。戸建て住宅地に出て、歩道橋から住宅地を眺め、戸建て住宅に挟まれた緑道を歩いていく。途中、共有庭を囲んだコートハウスもあって興味深い。しばらく行くと児童遊園に出て右折。やや広めの歩行者道路をしばらく歩くと、「センター北」駅前の広場に戻った。まず、高級そうなマンションが多い。戸建て住宅は高蔵寺ニュータウンに比べれば敷地は狭いが、歩行者道路や児童遊園などの緑に恵まれている。そして完全な歩車道分離がされている。高蔵寺ニュータウンではUR賃貸住宅の中でこそ、狭い歩行者道路が住棟の間を縫って続いているが、戸建て住宅地までは続かない。
f:id:Toshi-shi:20180626133731j:plain
 「センター北」駅に戻ってどうしようかと迷ったが、「センター南」駅まで歩いてみた。「ノースポートモール」の横を通り、横浜市歴史博物館まで歩く。この間、広い歩道が気持ちいい。そこから先も歩行者空間は続くが、周りはかなり殺風景。東西に「ルララこうほく」と「港北みなも」の二つの商業施設。もっとも歩道から見ると施設の裏側で駐車場と看板しか見えないが、これだけの大規模商業施設がいくつも立地して成り立っているかと思うと、高蔵寺との規模の違いに改めて驚愕する。しばらく歩き、川を渡り、「センター南」駅の中に入っていく。駅は長いエスカレーターの先だが、とりあえず地上階を通り過ぎて右へ曲がり、都築区役所へ向かった(あとから考えれば、エスカレーターに乗って、駅南の広場からペデストリアン・デッキ経由で行けばよかった)。
 港北ニュータウンの開発経緯や全体計画がわかるような資料はないかと訪ねたのだが、図書館があったので、郷土資料コーナーを物色したところ、「(財)港北ニュータウン生活対策協会」発行の「写真集 港北ニュータウン~むかし・いま・そして未来へ…~」がわかりやすかった。それをパラパラっと見て感じたことは、地域の歴史があり、また区画整理を成功させるにあたって地元地権者の勉強や協力もあった。が、それが現在の入居者にどれだけ伝わっているか。港北ニュータウンアイデンティティは何か。それがもう一つわからなかった。いや、たぶん、港北ニュータウンに長く住んできた人にはそれなりの思いがあるだろうし、住民相互の活発なコミュニティなどもあるのだろうが、高蔵寺ニュータウンにあって港北ニュータウンにないもの。それは「物語」ではないかなと思った。高蔵寺ニュータウンは港北ニュータウンに比べれば、わずか1/5位の規模しかない。歩いても十分、ニュータウンの端から端まで行ける。だから、長く住んでいる人には、どこに何があって、どんな経緯をもって今があるのかを知っている。そして、一昨年上映された「人生フルーツ」、津端修一という都市計画家の存在。そこに高蔵寺ニュータウンと港北ニュータウンの違い、わずかに高蔵寺ニュータウンが優っている点があるのではないか。そんなほのかな希望を抱いた。いや、私の単なる幻想かもしれない。港北ニュータウンの方がずっと環境的にもすばらしいし、それが多くの人を惹きつけ、ほぼ計画人口並みの事業の達成を果たしている。
f:id:Toshi-shi:20180626133910j:plain
 資料の中に「まちづくり館」という名前を見つけ、行ってみる。だがそこは社協などが入っている施設だった。2階に「(NPO法人)港北ニュータウン記念協会」があったので訪ねてみればよかったかも。でも、何を聞きたいのか、明確な意思もなかったので躊躇した。隣に「(株)横浜都市みらい」もあった。「センター北」駅前の商業施設「あいたい」などを管理運営している会社だが、入口が地味だったので気後れして、そのまま「センター南」駅まで引き返した。
f:id:Toshi-shi:20180626144850j:plain
 そしてエスカレーターに乗って驚いた。駅前に広い広場が広がり、商業施設が並んでいる。すごい。こちらも広場の南の端まで歩いて戻ってきた。帰りに不動産屋を覗いたら、中古戸建て住宅が6000万円前後、賃貸住宅も11~16万円近くする。なるほど高級住宅地。高蔵寺ニュータウンと比べるのもおこがましい。そんな劣等感を抱きつつ、チケットショップで名古屋までの格安チケットを購入した。横浜へ行くのも、名古屋へ行くのも、値段は一緒。それだけはよかった。首都圏へ向かう電車運賃の方が、下りよりも2倍も高いとしたら、きっともっと深い劣等感に陥っただろう。夕方、UR本社での仕事を終え、新横浜駅でシュウマイ弁当を買って、新幹線に乗り、心温まる家族のもとへ、高蔵寺へと帰路を急いだ。港北ニュータウンはかなり高いレベルでニュータウンの理想形を実現している。田舎者にはちょっと手が届かないけど、歩いてみるだけなら誰でも自由にできる。

知られざる地下街

 (P019)に「こんなに距離が短い地下街があった」として、「蒲郡北駅前地下街」が紹介されている。(P025)に「全国地下街一覧」が掲載されているが、80ヶ所の地下街のうち、人口10万人以下の市にある地下街はこの「蒲郡北駅前地下街」だけだ。生まれ育った町なので、もちろんその存在は知っており、飲み屋街という印象だったが、最近は閉店した店も多く、シャッターの間にぽつりぽつりと店がある感じ(のようだ。最近行ってないので知らない)。でもこうして全国地下街の一つとして掲載され、もっとも短い地下街として1ページを割いて紹介されているのを見るとうれしい。
 廣井先生は名古屋大学在籍中に多少の面識はあるが、地下街の研究をしていたとは知らなかった。第1章、第2章で、地下街のトリビアと歴史を紹介。続いて「全国地下街案内」として、札幌から福岡まで、全国24ヶ所の特徴的な地下街が紹介されている。名古屋の地下街が7ヶ所と、東京・大阪を抑えて最も数が多いのはうれしい。中でも「サンロード」は日本で初めての本格的な地下街だそうで、地下街の南側が彎曲して迷路のようになっている理由は本書を読んで初めて知った。「エスカ」となごやめしの関係などのエピソードも面白い。
 第3章の「災害から地下街を守る、日本の進化する技術」こそが廣井先生の専門だが、正直、あまり面白いわけではない。火災や浸水被害への対応もある意味当たり前。だが、停電時には真っ暗になってしまうという指摘はなるほどと思った。これは確かに大変。蓄光表示などの対策が挙げられていた。また第4章「地下街のこれから」ではもっぱらICT、位置・空間情報技術の説明に終始していたのには閉口した。専門的過ぎる感じ。
 冒頭で「蒲郡北駅地下街」の紹介をしたが、地下街が今後も経営的に成り立つかどうかが、これからの地下街を考える上での最大の課題ではないか。各地下街が近年盛んにリニューアルをしていることが紹介されているが、それも老朽化もさることながら、経営面での課題があるから。そして地下街防災推進事業の実施が紹介されているが、それができない地下街はどうなってしまうのか。シャッター商店街以上にシャッター地下街対策は深刻ではないかと思うのだが、それを防災が専門の廣井先生に期待しても無理でしょうね。都市計画的、若しくは経営学的な視点からの地下街研究に期待をしたい。

知られざる地下街

知られざる地下街

○地下街の建設動機は、地下鉄の施設とあわせて開設されたもの、単独の商店街として建設されたもの、地上交通の混雑緩和を目的にした地下通路の設置にあわせてつくられたもの、地下駐車場にあわせて併設したものなど、さまざまです。・・・多くの地下街が昭和30年代、40年代に開業していて、30年以上経過している地下街は全体の約8割に上り、中には60年以上経過しているものもあります。(P036)
エスカにとってのターニングポイントは2005年に開催された愛知万博でした。・・・名古屋駅近のエスカは、訪れた方に名古屋らしさを感じてもらえるような“おもてなしを”と、当時はまだ“B級グルメ”と呼ばれていた「なごやめし」に特化した飲食店を積極的に誘致し、見事に成功。万博終了後も“エスカ=なごやめし”のイメージが定着し多くの来街者に楽しんでいただいています。(P061)
○地下に連絡通路を設けて地上の渋滞を緩和することを立案したのですが、それならばその地下通路の維持管理の収益を確保するため、地下通路沿いに商業施設つまり店舗を備えた明るい街づくりをしようと考えたことがサンロード開業の発端・・・です。また・・・時を同じくして計画された名古屋市営地下鉄東山線の隧道上に一体構造で建設され・・・そのため地下鉄線路に沿って地下街の南側は彎曲しています。(P068)
○外からの光が入りにくく、ほとんどいつも照明に依存している地下街が停電になると、想像以上に暗くなり、周りの状況を把握できなくなる可能性があります。・・・そこで・・・「畜光」の利用が、停電時の対応の一つとして挙げられます。(P136)