県公社住宅を活用した高齢者住宅「ゆいま~る大曽根」

 6月に名古屋市大曽根で(株)コミュニティネットが、県公社住宅の空き室を活用したサービス付き高齢者向け住宅「ゆいま~る大曽根」の募集を開始し、新聞やテレビ等でも取り上げられた。(株)コミュニティネットのホームページにはその後の状況が掲載されているが、6月の時点で入居予約が55%。7月には「入居予約者のプロフィール」などの記事も掲載されている。こうした記事が掲載されるということは、まだ満室というわけではないということかと思うが、好調な出足と言って差し支えないであろう。
 しばらく前の話で申し訳ないが、5月30日に愛知県住宅供給公社の方から、公社住宅の空き室をサ高住とするに至った経緯などを聞かせていただく機会があった。そのことを簡単に報告しておく。
 全国的に公社住宅は空き室が多いと言われるが、愛知県公社においても昭和40年代、50年代に建設された住宅を中心に空き室が多くなっている。大曽根住宅は昭和50年・51年に管理開始された11階建て4棟480戸の住宅で、住戸面積が50㎡弱という狭さや地下鉄駅から徒歩15分という立地も影響してか、近年、特に空き家が増加している。
 こうした中で、1階が店舗スペースとなっている併存住宅2棟について、サービス付き高齢者住宅として利用する貸与住宅40戸(追加可能戸数30戸)、高齢者生活支援施設として活用する賃貸施設約50㎡(1戸分)及び大型店舗スペース約982㎡、さらに任意で貸与可能な小型店舗スペース2区画(各88.8㎡)を条件に、昨年6月から事業者の募集を行った。その結果、(株)コミュニティネットが事業者として選定された。
 サ高住及び関連施設に係る工事については、(株)コミュニティネットが補助制度を活用して実施し、県公社は共用部分のバリアフリー改修などを実施する。残りの一般住宅は現在も家賃53,200円~56,200円(共益費とも)で賃貸しているが、サ高住住戸については一括して事業者に約65%の家賃で賃貸。また店舗等のスペースも相応の賃料で賃貸する。事業者はこれを受けて、3タイプにリニューアルし、家賃65,000円~74,100円、生活サポート費37,800円~45,360円(二人)、共益費5,000円で高齢者に貸し出していく。
 上述したように、既に多くの入居予約者がいるということで、まずは順調なスタートということか。9月の入居開始が楽しみだ。さらに県公社では、新婚向け・子育て世帯向けのリノベーション住宅の募集も行っている。こちらも好評のようだ。サ高住の導入が大曽根住宅、さらには公社全体の活性化につながることを期待したい。

近代化遺産を歩く

 2001年発行だから、もう16年も前の本である。これまでも何度か書店で手に取ったことがあるが、先日ようやく購入した。どうしてこれまで購入しなかったかと思うに多分、もっと土木的な構造物が掲載されていることを期待したからではないか。思った以上に建築物が多い。
 「近代化遺産」と似た言葉に、「土木遺産」、「産業遺産」などがある。「土木遺産」は土木学会が2000年から認定を始め、毎年20件ほどを認定している。「産業遺産」については、国際産業遺産保存委員会なる国際的な組織がある。また、経産省では2007年と2009年に「近代化産業遺産」の認定を行い、66の近代化産業遺産群と1,115の認定遺産が公表されている。
 一方、「近代化遺産」については、文化庁重要文化財の種別として1993年に創設している。本書で紹介される構造物がすべてこの近代化遺産に指定されているかどうかは定かでないが、これらの〇〇遺産の中には重複して認定・指定されているものも多い。本書に掲載されている近代化遺産はあくまで、写真家・増田彰久の選定によるものとして理解したほうがいい。全体的にはやはり写真家の目から見て、美しいもの、感情に訴えるものが多く選定されているように思う。その中には既に壊されてしまったものも多い。伊豆大島の測候所が知らないうちに壊されてしまったことを嘆いているが、確かに自然や災害の力よりも経済力の方が破壊力は大きいようだ。
 「はじめに」では、「近代化遺産は懐かしい、自分の生活に関わるもの」「市民の文化財」といった定義がされている。私が昔関わった常滑市のやきもの散歩道では、「世間遺産」という言葉が使われていた。「近代化」というと近代化に功績のあった文化財ということになってしまうが、自分の生活と関わってきた、自分自身をつくってきた構造物と考えれば、こうした文物はまさに多くあり、全て「遺産」と言えるのかもしれない。「自分遺産」である。自分にとっての遺産をもっと発掘していきたい。

カラー版 近代化遺産を歩く (中公新書)

カラー版 近代化遺産を歩く (中公新書)

○「近代化遺産」では「懐かしい」という言葉がキーワードになるのではないだろうか。学者や研究者がこれは価値がある、というからではなく、むしろ自分自身の周りで「これは」と思うもの、基本的には多くの人々が大切にしていきたいものが「近代化遺産」ではないだろうか。・・・言い換えれば、自分史の資料となるような文化財とも言えるし、生きた物語のある文化財とも言い換えることもできる。現在の生きた社会の中にある文化財なのである。・・・「近代化遺産」の場合は・・・市民からアプローチしていく文化財と言えるのではないかと思う。(P6)
〇どの都市でも駅は町の中心にはつくることができなかった。鉄道建設に強い反対があったからである。・・・地方でもとんでもないところに駅が誕生したことにより、江戸時代の都市の構造は大きく崩れていく。駅から町の中心までは道路でつなぐことになり、そこで駅前大通りが生まれていく。この通りが新しい町の骨格となり、町を大きく変えていった。駅は都市のイメージの中心となり、新しい核となった。新しい文化や近代的な技術を鉄道が運んでいった。駅は文明開化の窓のようなものであった、ということができる。(P20)
〇土木の人は技術者として自らがつくったものが多くの目に触れるので、いろいろなデザインを、ここぞとばかり施し、がんばった。・・・建築家たちがもし、このデザインをやっていたら、もっときちんとし過ぎて、今のような少しユーモラスで少しキッチュで大きいが可愛らしいというような、楽しいデザインは生まれなかったのではないかと思う。この配水塔の中は水だけだが、すこしも冷たく感じさせない。なんとなく親しみを感じさせる不思議な構造物である。(P81)
〇野蒜に国際的な港をつくり海外との貿易の拠点にしようと考えたのである。明治11(1878)年に野蒜築港は起工、明治15年に完成した。竣工した突堤は、その2年後の明治17年9月の台風によって流失し、壊滅的な打撃を受け、せっかく築いた港は完全に崩壊してしまった。・・・このプロジェクトが成功していれば、野蒜は横浜をしのぐような町になっていたのだと言う人もいる。当然だが、まだ横浜には港の計画すらなかった時代のことである。(P122)
三原山が噴火して、全島に避難勧告が出されたときに、テレビで測候所の人たちも避難したという情報を伝えていた。その後、この建物が無傷であったことを聞き、ホッとしたことを思い出した。測候所が無事に残ったと喜んでいたら、最近、この名作は壊されたと聞いた。日本を代表するモダニズムの建物が、こんなにあっさり、話題にもならずに壊されたことは、まことに残念である。自然の地震や災害で壊されるということよりも、破壊力は、やはり経済の力の方が強いことを、ひしひしと感じた。(P182)

世界の美しい名建築の図鑑

 原題は「THE STORY OF BUILDINGS」。「建物の物語」。この方が内容を的確に表している。確かに精密で美しいイラストがついて、世界の様々な建物の特徴が余すところなく表現されている。それらを見ているだけでも楽しい。外観だけでなく、内部も各所で建物を断ち切っては断面図を描き、わかりやすく説明もついている。だから「図鑑」とタイトルをつけたのもわからないではないが、しかしそれ以上に楽しいのが、建物を巡る物語だ。
 アテネの再建。パラーディオによる古典様式への回帰。万国博覧会での水晶宮の採用。オペラハウスの誕生に纏わる物語。洞窟から始まった住まいが様々な工夫の中で多様な家が現れる。さらに様々な用途の建物。ピラミッドに始まって、最後は環境共生住宅であるストロー・ベイル・ハウスまで。有史から現代に至るまでの建物の歴史を辿りつつ、単にそれらを説明するだけでなく、物語として提示する。
 読んでいると、建物のデザインが、装飾と装飾のないデザインとの間を行ったり来たりしていることに気付く。古典様式からゴシック様式。そしてルネサンスを迎えてネオロマネスクに戻り、バロックが現れ、しかし産業革命ともに水晶宮が現れ、アーツ・アンド・クラフツやバウハウスなどの活動があり、インターナショナル・スタイルが生まれる。
 西洋建築史の講義の中で、こうした物語を聞いたことがなかった。中高生が読んでももちろん面白い。だが建築教育の初期課程で読んでも十分有用だ。建築の楽しさや意味が伝わってくる。建築にも物語の力が必要だ。

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

世界の美しい名建築の図鑑 THE STORY OF BUILDINGS

○クセルクセス軍はペルシアへ引き揚げましたが、アテネの人々が戻ったのは、廃墟と化した都市でした。・・・ペリクレスはよくアクロポリスに登り、自分がこよなく愛する都市を見下ろしました。焼け焦げた石の建物の中では政治家たちが集会を開き、劇場では観客が歓声を上げ、広場では哲学者たちが討論しています。これこそがアテネが特別な都市である理由だ、とペリクレスは思いました。・・・新たなパルテノンはアテネを象徴するものにしようとペリクレスは固く心に決めていました。・・・パルテノンは、女神に捧げた単なる神殿ではありません。アテネそのものの象徴だったのです。(P25)
○来る日も来る日もスケッチを重ねるうちに、パラーディオはある結論に達しました。美しい建物をつくるには、見栄えのする柱やアーチや彫像で飾り立てる必要はありません。本当に大切なのは、それぞれの部分とほかの部分との関係です。対称的な形にし、数学を用いて各部分が全体とバランスを取るようにすれば、どんなにシンプルな建物でも美しくなるのです。・・・パラーディオの『建築四書』はヨーロッパ中で出版されました。・・・人々は理解したのです。/美は華やかな装飾に頼る必要はなく、最もシンプルなものが最も完璧なこともあるのだと。(P57)
○パスクストンのホールは無事に完成し、開会の日を迎えました。/ロンドンっ子たちは、日の光を受けて輝くガラスのヴォールトを見て、水晶宮クリスタル・パレス)という呼び名をつけました。・・・分解される・・・様子を見物していた人たちは、建物というもののイメージがすっかり変わってしまったことに気づきました。建物が機械を使って建てられるというだけではありません。建物自体が機械だったのです。・・・展示ホールは・・・やがて焼け落ちてしまいましたが、建っていた場所は今でもクリスタル・パレスと呼ばれています。(P75)
○20世紀初めの第一次世界大戦では多くの人が亡くなり、多くの町も跡形もなく破壊されました。その影響で、戦争が終わると人々はますます過去ではなく未来を見るようになりました。・・・貧しい人でもいい家に住める世界、新たな可能性やすばらしい発明を誰もが分かち合える世界を。・・・人々は口々に言いました。「私たちは、今、この時代に生きているのだ。すべては現在にふさわしいものにしなければならない」/こうして登場したのが近代建築です。(P83)
○審査員たちが最も気に入った案は・・・ペンとインクで描かれた素朴な小さなスケッチでした。・・・しかし、この時点で、シドニー・オペラハウスが完成するまでどれほどの歳月がかかるか・・・まだ誰も知りませんでした。・・・激しい対立の末にウツソンは解任され、怒ってデンマークに帰ってしまいました。/そのようなわけで、水に浮かぶ帆のような小さなスケッチを描いたヨーン・ウツソン本人は、オペラハウスがついにこけら落としを迎えた日、その場にはいませんでした。(P102)